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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~加西市編 その6

古の播磨を訪ねて~加西市編 その6

河内(かふち)の里

 

 播磨国風土記には「土地は中の下です。ここは、川を由(よし)として、名がつきました。この里の田は、草を敷かずに稲種をまきます。そうするわけは、住吉の大神が、難波へ行かれるとき、この村で食事をなさいました。そのとき、お供の神たちが、人が刈っておいた草をバラバラにして、敷物としました。そこで、草の持ち主が大変困って、大神に訴えたところ、聞きわけて仰せられるには、『お前の田は、草を敷かなくても、草を敷いたように必ず苗が生えるだろう』、だから、その村の田は今も草を敷かずに苗代を作ります。」とあります。

 

 まず、この条は川があるから「河内の里」と名前がついたということですが、その川は、加西市を流れる万願寺川の支流の「普光寺川」を指していると考えられています。また、本文中にある「草を敷いて苗代をつくる」という記述は、現代の我々には、理解しにくいのですが、古代においては、苗代を作る前に、枯れ草を敷いたり、土に埋めたりして基肥を作ってからモミ撒きをしたようです。

 

 さて、今回は、加西市の最北部の河内町(こうちちょう)を訪ねました。中国自動車道加西ICで降りて、県道24号線に入り、北東の方向へ。「河内南」の信号を左折。ここから北部一帯が「河内の里」と呼ばれていた地域と考えられており、その中心を「普光寺川」が流れています。ここ「河内の里」には風土記の記述が納得いく田園風景が広がっていました。

 

 「普光寺川」は「普光寺」から名前を取ったものですが、普光寺は河内町にある寺院で、白雉2年(651)、法道仙人によって開基されました。法道仙人が山に登った際、妙法の声を聞き、ここに伽藍を建立したと伝えられています。第36代孝徳天皇の勅願により蓬莱山普光寺と号し、現在では書寫山圓教寺や法華山一乗寺と並び称される播磨六山天台宗の古刹です。

 

 参道を進むと、享保年間に造立された仁王門があります。この辺りから立ち並ぶ春日燈籠は、延々と本堂まで続き、ご住職によりますと二百基余りあるとのことでした。極めつけは、本堂正面にそびえ立つ、高さ7m、重さ22トンの巨大な春日燈籠で、東洋一の大きさと言われています。時々時雨れる肌寒い1月下旬のいっとき、播磨国風土記の河内の里にある大自然の中の名刹・普光寺にお参りし、悠久の時を独り占めして何かもったいないような気がしました。 (賀毛の郡)

古の播磨を訪ねて~佐用町編 その6

古の播磨を訪ねて~佐用町編 その6

  中川(なかつがわ)の里

 
 播磨国風土記には「土地は上の下です。
 仲川 仲川という名がついたわけは、苫編首(とまみのおびと)らの先祖の大仲子について、こんな話が伝わっているからです。神功皇后が朝鮮半島へ渡られるとき、船が淡路の岩屋に停泊しました。そのとき、激しい風雨が起きて、農民が皆濡れてしまいました。その時、大仲子は笘で家を作りました。皇后は『この人は国の宝です』とおっしゃって、氏姓をくださり、苫編首と名のりました。その人がここに住みました。そこで仲川という名がついたのです。
 昔、天智天皇の世に、丸部具(わにべのそなふ)という人がいました。仲川の里の人です。この人が、河内の国・兎寸(とのき)の村(大阪府高石市)の人の持っている剣を買い取りました。剣を手に入れた後、一家の者みんなが死に絶えました。その後、苫編部犬猪(とまみべのいぬゐ)という人が、跡地に畑を作っていたところ、土の中からこの剣を見つけました。土が直接つかないように、土中に空間が保たれ、周囲の土から一尺ほど離してありました。その柄は朽ちてなくなっていましたが、その刃は錆びず、綺麗な鏡のように、きらきら光っていました。そこで、犬猪は、不思議に思って剣を取って家に帰り、鍛冶屋を呼んで、その刃に焼を入れさせました。その時、この剣が蛇のように伸び縮みしました。鍛冶屋は大変驚いて、焼を入れることができませんでした。そこで、犬猪は、霊妙な剣だと思って朝廷に献上しました。後に、天武天皇13(684)7月、曾禰連磨(そねのむらじまろ)をつかわして、元の所へ送り返されました。剣は、今もこの里の役所に置いてあります。」とあります。
 
 解釈文が長くなりましたが、この部分は、「中川の里」の条の前半部分で、里名の付いた所以とそこに伝わる昔話が記述されています。
 
 訪問した当日は、佐用町教育委員会の藤木さんにご案内いただきました。現在の志文川流域の三日月町末廣に、「新宿」という大字地区があります。ここには、昭和473月に県の重要文化財に指定された「播磨国 中津河」と刻印のある南北朝時代嘉慶2年(1388)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っています。この地区で「なかつがわ」という文字が残っている一番古い資料だそうです。その上、この辺りには、たまたまかもしれませんが、「中川」という姓も多く、「中川の里」は三日月町の志文川沿いにあったと一般的には考えられているようです。
 
 また、ここ中川の里には、山陽道から分かれた支路美作道沿いに「中川駅家」が置かれていたことが分かっています。『延喜式』には「中川駅家」は、馬数5疋と定められていますが、その比定地はハッキリしていません。しかし、前述の三日月町末廣の新宿にあったと言われている新宿廃寺跡(現在、側柱礎石が三個残っていました。蓮華紋軒丸瓦が出土し昭和585月、町の文化財に指定)が、中川駅家ではないかと、唱える人もいます。いずれにしましてもこの里は、行政上かなり重要な土地であったと考えられています。
 
 次に、土地の等級は「上の下」とあります。今まで何回も触れてきましたが、現存の播磨国風土記には、「上の上」の土地は無く、「上の中」は5里、「上の下」は2里記載してあります。讃容の郡は「上の中」の土地が3里、そして、ここ「中川の里」は「上の下」で、讃容の郡6里の内、4里が「上」に属します。これら現在の千種川・志文川沿い一帯は、古代よりかなり肥沃な豊穣の地で、きっと人々は豊かな生活をしていたのではないかと考えながら帰路につきました。

       (讃容の郡) 

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その6

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その6

 佐々村 阿豆(あつ)村 飯盛山 大鳥山

 

 播磨国風土記には「佐々村 応神天皇が、国内を巡行なさったとき、笹の葉をかんでいる猿に出会われました。そこで、佐々村といいます。

 阿豆村 伊和の大神が国内を巡行なさったとき、その胸の中が熱くなって苦しまれて、着物の紐を引きちぎってしまわれました。そこで阿豆と名づけました。

 また、ある人がいうには、昔、天に二つの星がありました。地上に落ちて石となりました。そのとき、沢山の人が集まって議論をしました。そこで、阿豆と名づけました。

 飯盛山 讃岐の国の宇達(うたり)の郡の飯の神の妻、名を飯盛の大刀自(おほとじ)といいます。この神が渡ってきて、この山を占拠して住んでいました。そこで飯盛山と名づけました。

 大鳥山 大雁がこの山に棲んでいます。そこで大鳥山といわれます。」とあります。

 

 この記述は揖保の郡の香山(かぐやま)の里の条の後半部分で、前半はこのシリーズ第87回で触れています。

 

 まず、佐々村は現在の新宮町上笹、下笹が、飯盛山は新宮町宮内のたつの市立新宮中学校西側の天神山が比定地とされています。

 

 次に、天から落ちてきた星が石になったと伝えられている阿豆村は、新宮町宮内の新田山(しんでんやま)が推定地とされています。山頂へのゆるやかな登山道は、山の北側を流れる栗栖川に沿うような形で続いています。山頂に着くと巨岩が目に飛び込んできました。これが、「重ね岩」と呼ばれている岩で、傍らには「『播磨国風土記』に天の星が落ちて、この岩になったとある。」と記した標柱が立てられています。また、少し離れたところには「烏岩」と呼ばれている大きな割れ目のある岩があり、これらが、播磨国風土記に登場する岩と考えられています。

 

 最後の大鳥山は新宮町内の大鳥山が比定地とされています。ただ、本文のように大雁が棲んでいるのでこの名前がついたという点については、諸説あります。雁は渡り鳥であるし、山に棲む鳥ではありません。研究者の中には、コウノトリではないかと考える人もいますし、現在氷ノ山に棲んでいるイヌワシではないかと唱える人もいるようです。ふと考えてみると、大鳥山は、氷ノ山を南へ下った位置にあり、近くには揖保川も流れていて、餌となる魚も沢山いることから、古代、大鳥山にはイヌワシが棲んでいて、この播磨の空を大きな翼を広げて悠々と舞っていたのではないかとその姿を想像し、何か浮き浮きとした気持ちになりました。    (揖保の郡 香山の里)

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その6

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その6

 漢部(あやべ)・菅生(すがふ)・麻跡(まさき)・英賀(あが)の里

 播磨国風土記には「餝磨(しかま)という名がついたのは、大三間津日子命(おほみまつひこのみこと)が、ここに仮の家を作って住んでいらっしゃったとき、大きな鹿がいて、鳴きました。そのときこの王が「鹿が鳴くなあ」とおっしゃいました。そこで、餝磨という名がつきました。

 漢部の里 土地の肥え具合は中の上です。漢部というのは、讃岐の国の漢人(あやひと:百済等の人)らがやってきて、ここに住んでいたので漢部と名づけました。

 菅生の里 土地は中の上です。菅生というのは、ここに菅の原野があるので、そういいます。

 麻跡の里 土地は中の上です。麻跡という名がつけられたのは、応神天皇が国を巡行なさったとき、『この山をみると、目尻を割くように入れ墨した形に似ている』とおっしゃいました。そこで、目割(まさき)という名がつきました。

 英賀の里 土地は中の上です。英賀というのは、伊和大神の御子、阿賀比古、阿賀比売の二柱の神がここにいらっしゃるので、神の名前をとって里の名としました。」とあります。

 

 この部分は、「餝磨の郡」の冒頭部分で、「シカマ」という郡名が付いた所以が説明してあります。そして、最初に漢部の里についての記述があるのですが、ここでは、その名前の由来の説明だけに終わっています。「餝磨の郡」には、16の里が登場してきますが、この郡の条の最後に再度漢部の里が登場し、そこには「多志野(たしの)」「阿比野(あひの)」「手沼(てぬ)川」「馬墓(うまはか)池」「餝磨の御宅(みやけ)」についての記述があります。今回は、紙面の関係でこの5箇所の訳文は省きました。

 

 このうち、多志野は姫路市六角付近、阿比野は姫路市相野、手沼川は姫路市上手野・下手野辺りの菅生川(現在の夢前川)、馬墓池は姫路市岩端町の小字池町辺りを、餝磨の御宅は姫路市飾磨区三宅辺りを指していると一般的に言われ、漢部の里は、かなり広範囲に及んでいたと考えられます。

 

 次に、菅生の里は、現在の菅生川流域で菅生小学校の辺りを指しており、麻跡の里は、広畑区西蒲田・蒲田辺りを指すと考えられているようです。

 

 この「麻跡:まさき」に関しては、飾磨区山崎の「や・まさき」から当地を遺称地と考える説もあるようですが、広畑区西蒲田の城山神社の西から太子町原へ抜ける峠を地元では「まさき峠」と呼んでいました。現在は、所々すり減った石の階段らしきものが残っていて、けもの道のような細い道が続いていました。この峠に残された名こそ、風土記の名残と考えてよさそうな気がしました。

 

 最後に、英賀の里については、英賀神社の木村尚樹宮司からお話を伺うことができました。この里は、一般的にはJR英賀保駅周辺の英賀保地区を指すと言われており、英賀神社は、本文中に出てくる二柱の神様を御祭神として、この地に鎮まっています。また、この神社の秋祭りの特徴として、拝殿の中で屋台を練る「拝殿練り」が祭の特徴となっているとのことでした。確かに拝殿の梁には屋台の擬宝珠の突き刺さった跡が沢山残っていました。

 

 今回もあちらこちらと東奔西走しました。その中で、広範囲に及ぶのに「漢部」を使った地名等が一切残っていないのが残念でしたが、「あやべ→あまるべ→余部→よべ(余部)」と時代と共に変化したと考えると、現在のJR「余部駅」が風土記の名残と言えるのではないでしょうか。

 

 いつもそうですが、現地調査しているうちに、大勢の方に色々とお教えいただき、真新しい知識を得ることができます。「渡る世間に鬼はなし」を実感した日もありました。感謝!感謝!の日々です。         (餝磨の郡)

古の播磨を訪ねて~明石市・加古川市編 その6

古の播磨を訪ねて~明石市・加古川市編 その6

 廝の御井(かしわでのみい)

 

 播磨国風土記には、「景行天皇が、日岡の上にお立ちになり、この土地が栄えるようにと四方をご覧になっておっしゃいました。『この土地は、丘と平野がとても広くて、この丘を見ると鹿児(かこ:鹿の子)のようだ』そこで名づけて賀古郡といいます。天皇が狩りをなさったとき、一匹の鹿が、この丘に登って鳴きました。その声はヒ-ヒーといいました。このため、日岡という名がつきました。

 この岡にいらっしゃる神は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波津比古命(いはつひこのみこと)です。この岡に褶墓(ひれはか)があります。なぜ褶墓という名がついたかといいますと、それは、こういうことがあったからです。

 昔、景行天皇が印南別嬢(いなみのわけいらつめ)に求婚なさったとき、賀毛(かも)郡の山直(やまのあたひ)らの先祖である息長命(おきながのみこと:別名伊志治)を仲人として、妻をめとる旅にお出かけになりました。・・中略

 天皇は、摂津の国の高瀬(現在の森口市内)の渡船場にお着きになり、淀川を渡りたいとお頼みになりました。しかし、渡し守の紀伊国の人・小玉は『私は天皇の家来ではありません』といいます。すると天皇は『朕公(あぎ:なあおまえ)そうだけれども、なんとか渡してくれ』とおっしゃいました。渡し守は『どうしても渡ろうと思うなら、渡し賃をください』と。そこで天皇は、すぐ旅行用の王冠をお取りになって、舟の中に投げこまれると、金色の冠の光が舟いっぱいに輝きました。渡し守は渡し賃をもらったので、天皇をお渡ししました。そこで、ここをアギの渡しといいます。

 ついに天皇は明石郡の廝の井戸にお着きになり、お食事をさし上げました。そこで、ここを廝(天皇の食事を作る人)の御井といいます。」とあります。 

 

 この部分は、現存している播磨国風土記の冒頭部分です。景行天皇の時代は、大体4世紀前半とされています。そして、播磨国全域が大和政権によって治められたのは5世紀の初めの頃と考えられています。淀川の渡し守が、天皇の言うことを素直に聞き入れなかったとありますので、景行天皇の時代には、摂津・播磨国はまだ完全に大和政権下に入っていなかったと考えられます。

 

 「廝の御井」は、釈日本紀に播磨国風土記の逸文として引用されている「駒手の御井」と同一ではないかとの説もあり、このシリーズ41回目で取り上げました明石市人丸町にある「亀の水」が比定地と考えられています。「廝の御井」=「駒手の御井」=「亀の水」ということでしょうか。        (賀古の郡)

古の播磨を訪ねて~明石市編 その5

古の播磨を訪ねて~明石市編 その5

 岩屋神社

 

 今回は、平成2811月下旬に、明石市材木町に鎮座しています岩屋神社を訪ねました。第二神明道路玉津ICで降りて、国道175号を南下し、国道2号と合流する「和坂」の信号を左折。明石川を渡り、「大明石町2丁目」の信号を南へ右折して「本町2丁目」の信号を通り過ぎること約300m、左手が岩屋神社です。当日は宮司さんからいろいろとお話を伺うことができました。

 

 ここ岩屋神社は、歴史と伝統のある式内社で、社伝によれば第13代成務天皇13年(西暦143年)615日に天皇の勅命により、淡路島岩屋より神を勧請して創祀されたということです。明石浦の名主、前浜六人衆が新しい船を仕立てて淡路から神にお遷りいただく際、海が大変荒れて、船が明石浦の浜より西方の林崎辺りに漂着。そのとき、海難防止と豊漁を祈ると、明け方には海も静まり現在の地に無事神様をお迎えすることができました。そして、地元住民が沖まで泳いで出迎え、「ご神体と一緒に乗船するのは畏れ多い」と泳ぎながら船を押して明石の岩屋の地に着いたといいます。

 

 毎年7月の第3日曜日には、祭神を淡路島から勧請した際の故事にちなんだ、「おしゃたか舟神事」斎行されています。「おしゃたか」という意味は、明石の方言の「おじゃたかなぁ」が訛ったもので、「神様がいらっしゃったか」という意味だそうです。この祭事では、祭神6柱と、お供のおしゃたか舟(全長約2m)9隻を持った氏子の青年たちが、舟を立ち泳ぎで頭上高く掲げ「オシャッタカー」と唱えながら、前に推し進めて、渡御式を行います。海難防止と豊漁を祈願する祭りとして、毎年多くの参拝者で賑わい、昭和50年(1975)には、明石最古の伝承海上神事として明石市の無形民俗文化財に指定されました。

 

 筆者が訪問した時は、冬まじかという感じの北風の少し強い日でしたが、宮司からいろいろお話をお伺いしている間に、ここ明石の夏の風物詩として知られている伝統祭事を是非拝見したいものだと、今から来年の夏のことが楽しみになりました。

古の播磨を訪ねて~上郡町編 その5

古の播磨を訪ねて~上郡町編 その5

 松雲寺のカヤ

 

 11月中旬に、上郡町赤松にある松雲寺のカヤの木を訪ねました。国道2号の有年原の信号を右折して北へ約10㎞。智頭急行線の苔縄駅越しに日本一と言われている法雲寺のビャクシンを遠目に見ながら国道373号を千種川沿いに北上。途中、千種川に沿って半円を描くように大きく右に曲がって、再び北進を始める地点の右側の赤松の集落の少し高台に松雲寺があります。

 

 この松雲寺は、由緒書きによりますと、赤松円心の居城として名高い白旗城があった白旗山麓の栖雲寺(せいうんじ)を継承した寺だそうです。そして、この栖雲寺も円心の次男赤松貞範が建立した寺で、赤松氏との関わりの深さがうかがえる名刹です。

 

 ちなみに、赤松円心(則村:12771350)は南北朝時代に活躍した播磨の武将で、智頭急行線の駅名に「河野原(こうのはら)円心」という名がつくほど、地元では名高い英雄です。

 

 さて、松雲寺は、東寺真言宗に属する寺院で、お寺は赤松地区の集落からは一段高くなった台地に石垣を積んで建てられています。参道前に着くと、向かって境内左手にうっそうと茂る樹木が目にはいってきますが、この樹が今回の目的のカヤの木です。

 

 目通り約5.8m、根周り約8.3m、樹高約25m、樹齢は700年以上と推定されています。かつて、落雷に遭ったそうですが、見る限りにおいては、その悪影響もなさそうです。また、これだけの老木になると、空洞化したり、腐朽している箇所があるものですが、そのようなところは全く無く、樹勢も益々盛んな感じを受けました。昭和613月に上郡町の天然記念物に指定されています。

 

 実際に樹肌に触れてみると、ほんのりとした温かみを感じ、苔むしている処は、逆に少し冷たさが伝わってきました。その枝ぶりからはまさに生涯現役という感じを受けました。赤松氏の栄枯盛衰を目の当たりにしてきたこのカヤの木ですが、今後もこの高台からここ赤松の集落、そして千種川の流れを見守っていてくれることを願って、松雲寺をあとにしました。

古の播磨を訪ねて~相生市編 その5

古の播磨を訪ねて~相生市編 その5

 磐座(いわくら)神社のコヤスノキ

 

 今回は相生市矢野町森に鎮座しています磐座神社の境内に生えているコヤスノキを訪ねました。このシリーズ82回目で取り上げました「矢野の大ムクノキ」の北側の橋を渡り、矢野川左岸沿いに約300m進むと、磐座神社に到着です。

 

 磐座神社は、大ムクノキ越しに北東の方向に岩肌が見える権現山の麓に鎮座し、この権現山を御神体とする神社です。この神社は、仏教の影響を受けながら、巨石を対象とした民間信仰がいまだに続いている神社で、その辺りのことについては、このシリーズでもいつか取り上げてみたいと思っています。

 

 さて、磐座神社には、鳥居をくぐった右手に相生市教育委員会の説明板があり、その脇にコヤスノキが1本植えてありました。さらに、奥の社殿の周りには比較的大きな木が数本生えていて、全てに「コヤスノキ」と札が付けてありますので、すぐ分かります。

 

 コヤスノキは、国内では兵庫県の南西部から岡山県南東部にかけてのごく狭い範囲にのみ分布するトベラの仲間の常緑低木で、レッドデータブックで準絶滅危惧種に指定されています。生育地はアラカシの茂る薄暗い照葉樹林です。そのような林は日本のどこにでもあるのに、何故特定の地域でしか見られないのか、理由はよく分かっていないようです。

 

 いずれにしましても、兵庫県内ではごく限られた処でしか生育しておらず、ここ磐座神社と上郡町の大避神社の社叢の「コヤスノキ」が、昭和9年に県の天然記念物に指定されています。

 

 また、今回取り上げたコヤスノキは、名前の由来はハッキリしませんが、「子安木」という漢字を当てることや社寺林に多いことから安産信仰に関係があると考える研究者もいるようです。

 

 境内には、イチョウやモミジの大木が幾本もあり、それに比べればコヤスノキは本当に細いものでした。若くない筆者ですが、境内のコヤスノキに「もっと大きくなれ!大きくなれ!」と、私なりにパワーを与えて、お社をあとにしました。

古の播磨を訪ねて~赤穂市編 その5

古の播磨を訪ねて~赤穂市編 その5

 今回は、赤穂市東有年の沖田遺跡公園を訪ねました。上郡町を訪問するたびに右折した国道2号「有年原」の信号を通り過ぎること約1.9㎞、国道沿いの南に茅葺建物のある遺跡公園が見えてきます。

 

 ところで、この有年地区には「有年原・田中遺跡」や「野田2号墳」など、弥生時代後期から古墳時代にかけての史跡が多く残っています。千種川が流れ、山や平地もあり、はるか昔から人間にとって生活しやすい場所であったと考えられます。また、医学博士松岡秀夫先生が開かれた「有年考古館」もあり、古代史に触れることのできる街といえます。

 

 さて、当日は、管理人さんに色々と話を聞くことができました。ここ東有年・沖田遺跡公園は田園風景が広がる中にあります。この公園周辺では、ほ場整備に伴って調査が進められた結果、縄文時代後期(約3500年前)から室町時代(約600年前)にかけての遺構や遺跡が沢山見つかっています。その中で、公園は道を挟んで南側が「弥生時代ムラ」、北側が「古墳時代ムラ」として二つのゾーンに分かれて整備されています。

 

 「弥生時代ムラ」には、弥生時代後期(約1800年前)の居住跡を復元した建造物があります。中でも、直径12mもある巨大な2号住宅は、通常の弥生式住宅よりは傑出した大きさで、兵庫県下でも最大級と言われています。

 

 一方、「古墳時代ムラ」周辺では、古墳時代後期(約14001450年前)の竪穴住居跡が密集した状態で、また、高床建物も発掘され、そこからさまざまな遺物等(全国的にも珍しい土馬)が出土しています。それらは、当時のムラの成り立ちや生活の様子を考える上で重要な遺跡であることから、平成43月に兵庫県の重要文化財(史蹟)に指定されました。

 

 この地では、上記のように、様々な出土物や遺跡が多く発掘されていることから、古代より高度な文明が栄えており、ここを統治するかなり有力なリーダーがいたのではないかと、想いはいつしか古代へと馳せていました。

古の播磨を訪ねて~稲美町編 その5

古の播磨を訪ねて~稲美町編 その5
 稲美町指定文化財
 
 今回は、稲美町の町指定文化財を訪ねました。先ず、六分一の地蔵菩薩立像と鳥居です。ご近所で工場を営まれておられる方にお話を伺いますと、この地は元来天満神社の社領で、その名残として、鳥居の下を通ってお地蔵さんにお参りに行くという神仏習合が今に残っている珍しいところですと教えいただきました。そして、新しい御旅所は、道を挟んで、真南にできており、天満神社の御神輿の坐すコンクリート製の台座も造られていました。
 
 さて、この地蔵菩薩立像ですが、南北朝時代の延文元年(1356)の文字が刻まれています。高さは地上部約1.5m、一部地中に埋まっているため、全体の高さは不明です。天満神社の御旅所近くにあるため、「御旅地蔵」と呼ばれ、町内では最も古い石造物で、平成元年7月に町の文化財に指定されました。一方、鳥居は「御旅地蔵」のお堂の近くにあって、約800m北にある天満神社の神殿に正対して建立されています。所謂、天満神社の御旅所の鳥居として建てられたものですが、製作年代ははっきりせず、その造りから室町時代から江戸時代にかけての時期と考えられています。こちらは、平成37月に町の文化財に指定されました。
 
 そのほか、国安328には、五輪塔と宝篋印塔、そして地蔵菩薩立像があります。五輪塔には「応安戊申年(1368)三月十八日」と製作年月日が刻まれており、町内では記名のある石造物の中で、二番目に古いものです。また、宝篋印塔には「明徳元庚午(1390)潤三月□日」と刻まれています。残念なことに、隅飾りの上部の九輪等の相輪部分は欠けていますが、隅飾りより下部の部分は全体的に保存状態もよく、上記五輪塔と少し年代のずれはありますが、同じ南北朝時代の石造物です。最後に、地蔵菩薩立像です。製作年代を特定するものは刻されていませんが、南北朝時代の錫杖地蔵と考えられ、後背の円形も保存状態はよく、高さは1.2mあります。これら三点はいずれも平成元年7月に町の文化財に指定されました。
 
 この地蔵菩薩は、長い間、稲美町国安の子守り地蔵として町民から慕われており、お顔を拝見しますと、子供をいじめる者は絶対に許さないぞ、というような表情をしておられます。筆者もこれからもズーット子供たちをお守りくださいと、手を合わせてお参りしました。