番外編 古の播磨を訪ねて~朝来市編
生野
今回は番外編として生野を訪ねました。
播磨国風土記には
「昔、人に害をする神様がいて、行き来する人の半分を殺していました。
それで、死野という名がつけられました。
その後、応神天皇が『これは悪い名だ』とおっしゃって、
改めて生野にしました。」
とあります。
以前、加古の郡の鴨波(あはは)の里の舟引原の条で紹介しました神様も、
通り過ぎる船の半分を沈没させていました。
昔は、怖い神様があっちこっちにいたようで、この条でも通行人の半分を殺してしまったというのです。
ここに出てくる「生野」は銀山で有名な「生野」ですから、
あるいは、この話は鉱山の鉱毒のことを説話化しているのかもしれません。
しかし、どういう理由であれ、通行人の半分が死んだということですから、ただ事ではなかったと思われます。
だから、応神天皇は「死野は良くない名前だ」とおっしゃって、
「生野」という良い名前に改めたということです。
何かホッとしますね。
ところで、この「生野」の条は、播磨国風土記の
「神前(かむさき)の郡 堲岡(はにおか)の里」に記載されていますが、
「生野」は時代が下れば、但馬国に入ってしまいます。
この風土記の時代、播磨の勢力が北へ伸びていて、但馬の南部地方も播磨国に入っていたことが分かります。
さて、話は変わりますが、明治以降、この生野と姫路の間は、
途中の町々や村々も含めて「銀の馬車道」を通して繋がっていました。
その「銀の馬車道」は、2012年にユネスコの『プロジェクト未来遺産』に登録されました。
この生野発の「銀の馬車道」を、はるか昔から長い歴史と伝統のもとで連綿と培われてきた
『播磨の遺産』として、私たち播磨人は未来へ繋いでいく使命があると思うこの頃です。
[神前の郡 堲岡の里]
生野銀山の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~姫路市 編
塩阜(塩阜神水:しおおかしんすい)
播磨国風土記には
「この丘の南に塩水の出るところがあります。
縦横それぞれ三丈位(約9m)、海から離れること三十里程(約16km)、
底に小石を敷き、周りに草が生えています。
そこは、海に通じていて満潮のときは、
深さ三寸ばかり(約9cm)になり、
牛・馬・鹿などが好んで飲みます。
そこで塩阜と名づけました。」
とあります。
現在、姫路市林田町林田には、
約3m四方を玉垣をめぐらし「塩阜神水」と刻された石の標柱が建立されている場所があり、
ここが、風土記記載の「塩阜」に比定されています。
その昔、石清水八幡宮から林田の地に八幡神を勧請
(かんじょう:神仏の霊を別の所に迎えてまつること)するとき、
小烏帽子(こえぼし:烏帽子をかぶった子供)36人がここで「禊」をしたという故事にちなみ、
今も林田町の八幡神社と式内社祝田(はふりた)神社の秋祭りの潮掻きは
この「塩阜」の神水を使って行われています。
さて、この「塩阜神水」へは、これまで何度も訪れましたが、その都度水量は違っていました。
つい最近訪ねたときは、残念でしたが干上がっていました。
暦を見れば、姫路地方は丁度大潮の干潮の時間帯でしたので、その影響を受けていたのでしょう!?
風土記記載当時の海岸線は、今よりはかなり内陸部であったと思われますが、
風土記の記述のように本当に「塩阜」が海に通じていたかどうかは別にして、
海からはるかに離れていても潮の満ち引きの影響を受けていたと考えていたこと自体、
古代人の夢・ロマン・そして、信仰心の篤さといったものを感じ取ることができますね。
[揖保の郡 林田の里]
古の播磨を訪ねて~上郡町 編
野磨駅家(やまのうまや)
今回は小雨の降る中、上郡町落地(おろち)の
古代山陽道野磨駅家遺跡を訪ねました。
古代山陽道は、奈良・平安時代には都と九州の大宰府を結ぶ重要な道で、
当時の日本で一番大切な大路
(だいろ、中路:ちゅうろ=東海道・東山道)でした。
駅家は、唐・新羅等の使節や役人に対して、馬の乗り継ぎや食料の支給、
宿泊所の提供などを目的としたものでした。
その駅家は、通常約16kmごとに設置されましたが、古代山陽道は、
国家が非常に重要視した官道でしたので、約8kmごとに設置されていました。
そのような大切な施設が、この現在の上郡町落地字飯坂・八反坪(はったんつぼ)に設置されていました。
「養老律令」(757年施行)には、その最初の行に「およそ、諸道に駅馬(やくめ)置かむことは、
大路廿疋(20ぴき)、中路十疋、小路五疋」とあり、野磨駅家には常時20頭の馬が用意されていたようです。
しかし、全国に、400ヶ所以上も設置された駅家は、そのほとんどが、開発により失われてしまい、
現在駅家跡と確定されている遺跡は、
全国でこの野磨駅家と布勢駅家(ふせのうまや:たつの市揖西町小犬丸)
の二ヶ所だけなのです。
古代山陽道は、これまでの発掘調査により、この上郡町あたりでは、県道5号線(姫路上郡線)と
ほぼ重なるルートに作られていたと考えられ、その道幅は、約10mもあったようです。
ところで、かの清少納言までも、その著書「枕草子」の中で
「むまやは、梨原。(滋賀県草津市)・・・やまのむまや、
あわれなること(しみじみと身にしみて感じられること)を
聞きおきたりしに、またあはれなることのありしかば、云々・・・(第223段)」
と書き留めていることや、
その昔主要な役目を果たした駅家の遺跡がこの播磨にだけ二ヶ所も残っていることを思うとき、
播磨人として、何か誇らしく思ってしまうのは私だけでしょうか。
野磨駅家跡の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~相生市 編
瓜生羅漢(うりゅうらかん)
現在の相生市に相当する箇所も、 前回の赤穂市同様に播磨国風土記には記述が残っていませんので、 風土記を離れた紀行文にしました。
梅雨の合い間の晴れた日に、相生市矢野町瓜生の羅漢の里を訪ねました。
駐車場で車を降りると、
鶯が今まで耳にしたこともない良い鳴き声で迎えてくれました。
前日が雨であったため、足元の悪い中での行程になりましたので、
苔むした石段に注意を払いながらゆっくり登って行きました。
切り立った大きな岩の間を抜け、
巨岩のトンネルをくぐり、急な石段を登りきると、
そこは聖地のような空間でした。
「羅漢講」と刻字された玉垣のような囲いがあり、
大きく張り出した岩窟の中には、
釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三体の像のほかに、16体の羅漢像が安置されていて、
この19体の尊者の前に立つと、自然と手が合わさってしまいました。
この瓜生羅漢の由来は、
第29代欽明天皇の時代に高句麗からの僧である恵便・恵聡の二人が石仏を彫ったとも、
弘法大師が全国行脚の途中にここを訪ねて石仏を刻んだとも、
その他諸説紛々としていてはっきりしていないようです。
しかし、そのようなこととは別に、人里からほんのわずか入ったところに、
人っ子一人もいないこんな深山幽谷を思わせる場所があったことに驚きました。
そして、平成9年7月のはじめに、規模や対象は違うものの、やはり雨上がりの翌日の足元の悪い中、
苦労して登って参拝した国東半島豊後高田市の熊野磨崖仏のことが、なぜか思い起こされ、
心洗われる思いがしたひとときでした。
羅漢の里の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~赤穂市 編
伊和津比売(いわつひめ)神社
非常に残念なことですが、播磨国風土記には赤穂の郡の全体が欠落しており、
また、諸本による逸文も存在しないため、
この郡に関しては何の手掛かりも残されていません。
そこで、今回を含め、相生市編・上郡町編の「はりま風土記紀行」では、
風土記を少し離れた歴史紀行にしたいと思います。
赤穂市といえば「討ち入り」となりますが、その「赤穂義士」と少し関係のある赤穂市内唯一の式内社である伊和津比売神社に参拝に行ってきました。
このお社は延喜式神明帳の赤穂郡の3座の筆頭に記載されている由緒ある神社です。
ご祭神は伊和津比売大神で、その昔、海上の「八丁岩」に鎮座していましたお社を、天和3年(1683)に浅野内匠頭長矩が現在地へ遷座たまわったそうです。
海に面した大鳥居を下って行くと遊歩道に出ました。そこから先も石段があり、海中に達するようでしたが、立ち入り禁止になっていましたので、残念でしたがそこで足は止めました。
当社は、古来「御崎明神」と呼ばれていて、航海安全や大漁祈願の神様として手厚い信仰を受けてきています。
また、古くから、若い男女による姫神信仰が盛んなようでした。
そして、ここ数年は縁結びのご利益のある「姫御守」が若い女性を中心に人気を集め、阪神間からわざわざ買い求めてくる人や、
「おかげさまで大願成就しました。」
とお礼参りに再来する人もいるということです。
その「姫御守」は長さ3.5cmほどの小判型で、赤い着物を着た姫を綿布でかたどって、かわいらしく微笑んでいる顔の部分は一体一体手書きだそうです。
また、ここからの眺望は抜群で、たまたま晴れた空気の澄んだ日だったためか、家島諸島・小豆島はすぐそこに、そして、明石海峡・鳴門海峡・四国までが手に取るように見ることができ、老体の私には、上記の「姫御守」のご利益は別としても、はるばる赤穂の地まで足を運んだ甲斐のある一日でした。
伊和津比売神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~市川町 編
川辺(かわのへ)の里・勢賀(せか)
播磨国風土記には
「この村は川の辺りにあります。そこで、川辺の里と名前がつきました。」
とあります。
ここに出てくる川は現在の市川のことと考えられ、また、市川町には町立川辺(かわなべ)小学校があり、この一帯が風土記記載の「川辺の里」に比定される場所と考えられています。
続いて播磨国風土記では、
「勢賀というわけは、応神天皇がこの川で狩をなさいました。
猪・鹿を沢山ここにセキ(逃げ道をふさぎ、追い)出しました。
だから、勢賀と言います。」
とあります。
この勢賀は、現在の市川町の上瀬加から下瀬加一帯のことと思われ、ここを流れる川は笠形山を源流として市川町西田中で市川と合流する岡部川のことと考えられています。
風土記を紐解いていて、いつも思うことですが、今から千数百年も前に使われていた土地名等が、紆余曲折はあるものの、連綿と受け継がれて現在に至り、上記の川辺小学校をはじめ、瀬加小学校・瀬加中学校等と学校名などにもなって今に残っていることに対して、地名歴史の偉大さを感じるとともに、ほんわかと心温まる感じがいたします。
[神前の郡 川辺の里]
川辺小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加東市 編
端鹿(はしか)の里
播磨国風土記には
「その昔、神が村々に木の種をお分けになっていましたが、この村にやって来たとき足りなくなってしまいました。
そこで、『ハシタなるかも(半端になったなあ)』とおっしゃいました。
そこで、ハシカという名がつきました。
今もその神が鎮座していらっしゃり、この村では、山の木に実がなりません。
槙・檜・杉が生えています。」
とあります。
現在の加東市立東条東小学校(加東市椅鹿谷56:はしかだに)辺り一帯の話と考えられ、地元では今も「はしかの里」と言われています。
さて、播磨国風土記のこの「端鹿の里」の条には、何とおっしゃる神様が、何の木の種を分け与えられたかは記載されていません。
しかし、神様はこの地で種が半端になったことを忘れておられませんでした。
それから千数百年後に、神様はこの地に「山田錦」という素晴らしい酒米のモミ種を蒔いてくださり、日本一の酒米所としてくださいました。
[賀毛の郡 端鹿の里]
東条東小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~播磨町・稲美町 編
大見山(おおみやま)
播磨国風土記には
「昔、任那(みまな:5~6世紀頃韓国南部にあった小さな国々の連合体)からの渡来人で、大部造(おおとものみやつこ)らの祖先である古里売(こりめ)が、この野を耕して粟を沢山撒きました。
そこで、アハハの里と名前がつきました。
また、この里に舟引原という所があります。
神前(かむさき)の村に荒々しく悪いことをする神がいて、いつも通り過ぎる舟の半分を通しませんでした。
そこで、通行する舟は、印南川(加古川)河口の大津に入り、川を上って賀意理多(かおりた)の谷から陸路舟を引いて、明石の郡の林の港に行きました。そこで、舟引原といいます。」
とあります。
後半部分の通せんぼされた船は加古川の大津(現在の加古川市米田町船頭か加古川町本町辺りか?)にとどまり、そこから加古川を遡って、カオリタの谷(加古郡稲美町天満大池の東西の谷か?)を、船を押したり、担いだり、引っ張ったり、沼を渡ったりして明石川に入り、下って今の林崎漁港辺りに至ったと思われます。
当時の船はさほど大きくはなかったとしても、大変な重労働であったことが推測できます。
現在、天満大池の西は稲美町六分一という地名で、ここの土地の古老によれば、天満神社御旅所辺り一帯を、以前「船引」と言っていたことがあるということでした。
従って、南はJR土山駅辺りから天満神社、さらにその北の湖沼地帯を含む広い範囲が風土記の「舟引原」と考えられているようです。
[賀古の郡 鴨波の里]
天満神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~太子町 編
大見山(おおみやま)
播磨国風土記には
「応神天皇が、この山の峰に登り土地の繁栄を祈って国の四方をご覧になられました。
そこで大見といいます。天皇が立たれた所に岩があります。
高さ三尺(約90cm)縦三丈(約9m)幅二丈(約6m)です。
その岩の表面に所々窪んだ跡があり、これを名づけて御沓(みくつ)また御杖(みつえ)といいます。」
とあります。
現在、この大見山は太子町と姫路市の境の標高165mの壇特山に比定されています。
その山容は小さいながらも(と言っても播磨平野の山々の中では一つの山としては一番大きいと思われますが)威風堂々としており、太子町を代表する山です。
その頂上の大きな岩には風土記に記載されているように、天皇が岩の上を沓で踏み、杖をたてたと伝えられている「御沓・御杖」と思われる窪みが沢山あります。
山の北よりの中腹で岩に腰掛け、一休みしながら太子町原の福井大池や京見山を望んで古の世界にロマンを馳せている時、低い地響きをたてながら壇特山から出てきた新幹線が颯爽と走り抜けていくのを見て、ふと現実に戻りました。
[揖保の郡 枚方の里]
檀特山の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~小野市 編
山田の里・猪養(飼)野(いかいの)
播磨国風土記には
「山田という名がついたのは、人々が山の際に住んでいましたので、里の名としました。」
また、
「猪飼(ゐかひ)という名がついたのは、仁徳天皇の御世に日向(宮崎県)の肥人(くまひと)の朝戸君(あさべのきみ)が、天照大神を祭っていらっしゃる船の上にイノシシを持参して献上しました。
そして、クマヒトはイノシシの飼育地を探し出して、その土地を頂けるよう、お願いしました。
そこで、この場所を賜り、イノシシを放し飼いにしましたので、猪飼野といいます。」
とあります。
今の小野市山田町辺りの話であり、イノシシの飼育に関して高い技術を持っていて、伊勢神宮にイノシシの毛皮等を奉納していたとされる猪飼部(いかいべ)の話のようです。
猪養(飼)野と出てくる地名は、古来、山田町草加野(そうかの:現在の大開町を含む広い範囲)に比定されています。
小野市山田町480の山田公民館に「山田の里」と刻された時計台が建立されており、そこから山裾に広がるのどかな田園風景を望んでいますと、風土記の時代にタイムスリップした気持ちになりましたが、不覚にも山田錦が脳裏をかすめてしまいました。
[賀毛の郡 山田の里]
小野市山田公民館の地図はこちら