古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その6
高屋(たかや)の里
播磨国風土記には「土地は下の中です。
高屋という名がついたわけは、天日槍命が『この村は、高いことでは他の村に勝っている』とおっしゃいました。そこで高屋といいます。
都太(つだ)川 誰も地名の由来を語れません。
塩の村 所々に塩分を含んだ泉がわいています。そこで塩の村といいます。牛馬などが好んで飲んでいます。」とあります。
「塩の村」は「しおの」ということで、それが訛って現在の山崎町庄能(しょうのう)辺りと推定されており、「都太川」は伊沢川を指していると考えられています。したがって、播磨国風土記の「高屋の里」は現在の山崎町庄能辺りから伊沢川のはるか上流辺りまでの範囲を指しているのではないかと言われています。
今回は3月上旬に宍粟市を訪問しました。国道29号山崎町今宿北の信号を左折して、県道429号線に入り、伊沢川に付きつ離れつしながら、北西の方向に約8㎞、宍粟市立都多(つた)小学校に到着です。里の名のとおり、車で進むにつれて、どんどん土地も山も高くなっていくのがわかり、風土記の記述内容を実感しました。
播磨国風土記の「都太川」の名前は「都多小学校」という形で今に残っていました。この小学校は明治20年4月「都多簡易小学校」として設立された歴史と伝統のある小学校です。校長先生にお聞きしますと、小学校のある谷全体を「蔦沢(つたざわ)」と今も呼んでいるそうです。また、校章は、蔦の葉の中に「小」という字を入れたものです。「ツダ(ツタ)」という名前が色々な形となって今に残っていることを知り、非常に嬉しく感じました。
ただ、現在全校児童34名ということで、小学校の統廃合も心配されるところですが、平成32年までは、近隣の小学校との合併はないとのことでしたので、ひとまず胸をなでおろしました。「都多小学校」の校名が播磨国風土記に由来する貴重で、歴史ある名であるということを改めて校長先生と確認し合い、この名がいつまでも残っていくことを願って、小学校をあとにしました。 (宍禾の郡)
今回が最終回です。平成24年10月から平成29年3月まで足かけ6年にわたって取り組むことができました。全くの素人でしたので勉強勉強の毎日でした。読み返せば、誤字・脱字も沢山あり、恥ずかしい限りです。大勢の方々の声に支えられて113回まで続けられたことに感謝いたしております。ありがとうございました。
古の播磨を訪ねて~加西市編 その6
河内(かふち)の里
播磨国風土記には「土地は中の下です。ここは、川を由(よし)として、名がつきました。この里の田は、草を敷かずに稲種をまきます。そうするわけは、住吉の大神が、難波へ行かれるとき、この村で食事をなさいました。そのとき、お供の神たちが、人が刈っておいた草をバラバラにして、敷物としました。そこで、草の持ち主が大変困って、大神に訴えたところ、聞きわけて仰せられるには、『お前の田は、草を敷かなくても、草を敷いたように必ず苗が生えるだろう』、だから、その村の田は今も草を敷かずに苗代を作ります。」とあります。
まず、この条は川があるから「河内の里」と名前がついたということですが、その川は、加西市を流れる万願寺川の支流の「普光寺川」を指していると考えられています。また、本文中にある「草を敷いて苗代をつくる」という記述は、現代の我々には、理解しにくいのですが、古代においては、苗代を作る前に、枯れ草を敷いたり、土に埋めたりして基肥を作ってからモミ撒きをしたようです。
さて、今回は、加西市の最北部の河内町(こうちちょう)を訪ねました。中国自動車道加西ICで降りて、県道24号線に入り、北東の方向へ。「河内南」の信号を左折。ここから北部一帯が「河内の里」と呼ばれていた地域と考えられており、その中心を「普光寺川」が流れています。ここ「河内の里」には風土記の記述が納得いく田園風景が広がっていました。
「普光寺川」は「普光寺」から名前を取ったものですが、普光寺は河内町にある寺院で、白雉2年(651)、法道仙人によって開基されました。法道仙人が山に登った際、妙法の声を聞き、ここに伽藍を建立したと伝えられています。第36代孝徳天皇の勅願により蓬莱山普光寺と号し、現在では書寫山圓教寺や法華山一乗寺と並び称される播磨六山天台宗の古刹です。
参道を進むと、享保年間に造立された仁王門があります。この辺りから立ち並ぶ春日燈籠は、延々と本堂まで続き、ご住職によりますと二百基余りあるとのことでした。極めつけは、本堂正面にそびえ立つ、高さ7m、重さ22トンの巨大な春日燈籠で、東洋一の大きさと言われています。時々時雨れる肌寒い1月下旬のいっとき、播磨国風土記の河内の里にある大自然の中の名刹・普光寺にお参りし、悠久の時を独り占めして何かもったいないような気がしました。 (賀毛の郡)
古の播磨を訪ねて~佐用町編 その6
中川(なかつがわ)の里
(讃容の郡)
古の播磨を訪ねて~たつの市編 その6
佐々村 阿豆(あつ)村 飯盛山 大鳥山
播磨国風土記には「佐々村 応神天皇が、国内を巡行なさったとき、笹の葉をかんでいる猿に出会われました。そこで、佐々村といいます。
阿豆村 伊和の大神が国内を巡行なさったとき、その胸の中が熱くなって苦しまれて、着物の紐を引きちぎってしまわれました。そこで阿豆と名づけました。
また、ある人がいうには、昔、天に二つの星がありました。地上に落ちて石となりました。そのとき、沢山の人が集まって議論をしました。そこで、阿豆と名づけました。
飯盛山 讃岐の国の宇達(うたり)の郡の飯の神の妻、名を飯盛の大刀自(おほとじ)といいます。この神が渡ってきて、この山を占拠して住んでいました。そこで飯盛山と名づけました。
大鳥山 大雁がこの山に棲んでいます。そこで大鳥山といわれます。」とあります。
この記述は揖保の郡の香山(かぐやま)の里の条の後半部分で、前半はこのシリーズ第87回で触れています。
まず、佐々村は現在の新宮町上笹、下笹が、飯盛山は新宮町宮内のたつの市立新宮中学校西側の天神山が比定地とされています。
次に、天から落ちてきた星が石になったと伝えられている阿豆村は、新宮町宮内の新田山(しんでんやま)が推定地とされています。山頂へのゆるやかな登山道は、山の北側を流れる栗栖川に沿うような形で続いています。山頂に着くと巨岩が目に飛び込んできました。これが、「重ね岩」と呼ばれている岩で、傍らには「『播磨国風土記』に天の星が落ちて、この岩になったとある。」と記した標柱が立てられています。また、少し離れたところには「烏岩」と呼ばれている大きな割れ目のある岩があり、これらが、播磨国風土記に登場する岩と考えられています。
最後の大鳥山は新宮町内の大鳥山が比定地とされています。ただ、本文のように大雁が棲んでいるのでこの名前がついたという点については、諸説あります。雁は渡り鳥であるし、山に棲む鳥ではありません。研究者の中には、コウノトリではないかと考える人もいますし、現在氷ノ山に棲んでいるイヌワシではないかと唱える人もいるようです。ふと考えてみると、大鳥山は、氷ノ山を南へ下った位置にあり、近くには揖保川も流れていて、餌となる魚も沢山いることから、古代、大鳥山にはイヌワシが棲んでいて、この播磨の空を大きな翼を広げて悠々と舞っていたのではないかとその姿を想像し、何か浮き浮きとした気持ちになりました。
古の播磨を訪ねて~姫路市編 その6
漢部(あやべ)・菅生(すがふ)・麻跡(まさき)・英賀(あが)の里
播磨国風土記には「餝磨(しかま)という名がついたのは、大三間津日子命(おほみまつひこのみこと)が、ここに仮の家を作って住んでいらっしゃったとき、大きな鹿がいて、鳴きました。そのときこの王が「鹿が鳴くなあ」とおっしゃいました。そこで、餝磨という名がつきました。
漢部の里 土地の肥え具合は中の上です。漢部というのは、讃岐の国の漢人(あやひと:百済等の人)らがやってきて、ここに住んでいたので漢部と名づけました。
菅生の里 土地は中の上です。菅生というのは、ここに菅の原野があるので、そういいます。
麻跡の里 土地は中の上です。麻跡という名がつけられたのは、応神天皇が国を巡行なさったとき、『この山をみると、目尻を割くように入れ墨した形に似ている』とおっしゃいました。そこで、目割(まさき)という名がつきました。
英賀の里 土地は中の上です。英賀というのは、伊和大神の御子、阿賀比古、阿賀比売の二柱の神がここにいらっしゃるので、神の名前をとって里の名としました。」とあります。
この部分は、「餝磨の郡」の冒頭部分で、「シカマ」という郡名が付いた所以が説明してあります。そして、最初に漢部の里についての記述があるのですが、ここでは、その名前の由来の説明だけに終わっています。「餝磨の郡」には、16の里が登場してきますが、この郡の条の最後に再度漢部の里が登場し、そこには「多志野(たしの)」「阿比野(あひの)」「手沼(てぬ)川」「馬墓(うまはか)池」「餝磨の御宅(みやけ)」についての記述があります。今回は、紙面の関係でこの5箇所の訳文は省きました。
このうち、多志野は姫路市六角付近、阿比野は姫路市相野、手沼川は姫路市上手野・下手野辺りの菅生川(現在の夢前川)、馬墓池は姫路市岩端町の小字池町辺りを、餝磨の御宅は姫路市飾磨区三宅辺りを指していると一般的に言われ、漢部の里は、かなり広範囲に及んでいたと考えられます。
次に、菅生の里は、現在の菅生川流域で菅生小学校の辺りを指しており、麻跡の里は、広畑区西蒲田・蒲田辺りを指すと考えられているようです。
この「麻跡:まさき」に関しては、飾磨区山崎の「や・まさき」から当地を遺称地と考える説もあるようですが、広畑区西蒲田の城山神社の西から太子町原へ抜ける峠を地元では「まさき峠」と呼んでいました。現在は、所々すり減った石の階段らしきものが残っていて、けもの道のような細い道が続いていました。この峠に残された名こそ、風土記の名残と考えてよさそうな気がしました。
最後に、英賀の里については、英賀神社の木村尚樹宮司からお話を伺うことができました。この里は、一般的にはJR英賀保駅周辺の英賀保地区を指すと言われており、英賀神社は、本文中に出てくる二柱の神様を御祭神として、この地に鎮まっています。また、この神社の秋祭りの特徴として、拝殿の中で屋台を練る「拝殿練り」が祭の特徴となっているとのことでした。確かに拝殿の梁には屋台の擬宝珠の突き刺さった跡が沢山残っていました。
今回もあちらこちらと東奔西走しました。その中で、広範囲に及ぶのに「漢部」を使った地名等が一切残っていないのが残念でしたが、「あやべ→あまるべ→余部→よべ(余部)」と時代と共に変化したと考えると、現在のJR「余部駅」が風土記の名残と言えるのではないでしょうか。
いつもそうですが、現地調査しているうちに、大勢の方に色々とお教えいただき、真新しい知識を得ることができます。「渡る世間に鬼はなし」を実感した日もありました。感謝!感謝!の日々です。 (餝磨の郡)
古の播磨を訪ねて~明石市・加古川市編 その6
廝の御井(かしわでのみい)
播磨国風土記には、「景行天皇が、日岡の上にお立ちになり、この土地が栄えるようにと四方をご覧になっておっしゃいました。『この土地は、丘と平野がとても広くて、この丘を見ると鹿児(かこ:鹿の子)のようだ』そこで名づけて賀古郡といいます。天皇が狩りをなさったとき、一匹の鹿が、この丘に登って鳴きました。その声はヒ-ヒーといいました。このため、日岡という名がつきました。
この岡にいらっしゃる神は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波津比古命(いはつひこのみこと)です。この岡に褶墓(ひれはか)があります。なぜ褶墓という名がついたかといいますと、それは、こういうことがあったからです。
昔、景行天皇が印南別嬢(いなみのわけいらつめ)に求婚なさったとき、賀毛(かも)郡の山直(やまのあたひ)らの先祖である息長命(おきながのみこと:別名伊志治)を仲人として、妻をめとる旅にお出かけになりました。・・中略
天皇は、摂津の国の高瀬(現在の森口市内)の渡船場にお着きになり、淀川を渡りたいとお頼みになりました。しかし、渡し守の紀伊国の人・小玉は『私は天皇の家来ではありません』といいます。すると天皇は『朕公(あぎ:なあおまえ)そうだけれども、なんとか渡してくれ』とおっしゃいました。渡し守は『どうしても渡ろうと思うなら、渡し賃をください』と。そこで天皇は、すぐ旅行用の王冠をお取りになって、舟の中に投げこまれると、金色の冠の光が舟いっぱいに輝きました。渡し守は渡し賃をもらったので、天皇をお渡ししました。そこで、ここをアギの渡しといいます。
ついに天皇は明石郡の廝の井戸にお着きになり、お食事をさし上げました。そこで、ここを廝(天皇の食事を作る人)の御井といいます。」とあります。
この部分は、現存している播磨国風土記の冒頭部分です。景行天皇の時代は、大体4世紀前半とされています。そして、播磨国全域が大和政権によって治められたのは5世紀の初めの頃と考えられています。淀川の渡し守が、天皇の言うことを素直に聞き入れなかったとありますので、景行天皇の時代には、摂津・播磨国はまだ完全に大和政権下に入っていなかったと考えられます。
「廝の御井」は、釈日本紀に播磨国風土記の逸文として引用されている「駒手の御井」と同一ではないかとの説もあり、このシリーズ41回目で取り上げました明石市人丸町にある「亀の水」が比定地と考えられています。「廝の御井」=「駒手の御井」=「亀の水」ということでしょうか。 (賀古の郡)
古の播磨を訪ねて~明石市編 その5
岩屋神社
今回は、平成28年11月下旬に、明石市材木町に鎮座しています岩屋神社を訪ねました。第二神明道路玉津ICで降りて、国道175号を南下し、国道2号と合流する「和坂」の信号を左折。明石川を渡り、「大明石町2丁目」の信号を南へ右折して「本町2丁目」の信号を通り過ぎること約300m、左手が岩屋神社です。当日は宮司さんからいろいろとお話を伺うことができました。
ここ岩屋神社は、歴史と伝統のある式内社で、社伝によれば第13代成務天皇13年(西暦143年)6月15日に天皇の勅命により、淡路島岩屋より神を勧請して創祀されたということです。明石浦の名主、前浜六人衆が新しい船を仕立てて淡路から神にお遷りいただく際、海が大変荒れて、船が明石浦の浜より西方の林崎辺りに漂着。そのとき、海難防止と豊漁を祈ると、明け方には海も静まり現在の地に無事神様をお迎えすることができました。そして、地元住民が沖まで泳いで出迎え、「ご神体と一緒に乗船するのは畏れ多い」と泳ぎながら船を押して明石の岩屋の地に着いたといいます。
毎年7月の第3日曜日には、祭神を淡路島から勧請した際の故事にちなんだ、「おしゃたか舟神事」が斎行されています。「おしゃたか」という意味は、明石の方言の「おじゃたかなぁ」が訛ったもので、「神様がいらっしゃったか」という意味だそうです。この祭事では、祭神6柱と、お供のおしゃたか舟(全長約2m)9隻を持った氏子の青年たちが、舟を立ち泳ぎで頭上高く掲げ「オシャッタカー」と唱えながら、前に推し進めて、渡御式を行います。海難防止と豊漁を祈願する祭りとして、毎年多くの参拝者で賑わい、昭和50年(1975)には、明石最古の伝承海上神事として明石市の無形民俗文化財に指定されました。
筆者が訪問した時は、冬まじかという感じの北風の少し強い日でしたが、宮司からいろいろお話をお伺いしている間に、ここ明石の夏の風物詩として知られている伝統祭事を是非拝見したいものだと、今から来年の夏のことが楽しみになりました。
古の播磨を訪ねて~上郡町編 その5
松雲寺のカヤ
11月中旬に、上郡町赤松にある松雲寺のカヤの木を訪ねました。国道2号の有年原の信号を右折して北へ約10㎞。智頭急行線の苔縄駅越しに日本一と言われている法雲寺のビャクシンを遠目に見ながら国道373号を千種川沿いに北上。途中、千種川に沿って半円を描くように大きく右に曲がって、再び北進を始める地点の右側の赤松の集落の少し高台に松雲寺があります。
この松雲寺は、由緒書きによりますと、赤松円心の居城として名高い白旗城があった白旗山麓の栖雲寺(せいうんじ)を継承した寺だそうです。そして、この栖雲寺も円心の次男赤松貞範が建立した寺で、赤松氏との関わりの深さがうかがえる名刹です。
ちなみに、赤松円心(則村:1277~1350)は南北朝時代に活躍した播磨の武将で、智頭急行線の駅名に「河野原(こうのはら)円心」という名がつくほど、地元では名高い英雄です。
さて、松雲寺は、東寺真言宗に属する寺院で、お寺は赤松地区の集落からは一段高くなった台地に石垣を積んで建てられています。参道前に着くと、向かって境内左手にうっそうと茂る樹木が目にはいってきますが、この樹が今回の目的のカヤの木です。
目通り約5.8m、根周り約8.3m、樹高約25m、樹齢は700年以上と推定されています。かつて、落雷に遭ったそうですが、見る限りにおいては、その悪影響もなさそうです。また、これだけの老木になると、空洞化したり、腐朽している箇所があるものですが、そのようなところは全く無く、樹勢も益々盛んな感じを受けました。昭和61年3月に上郡町の天然記念物に指定されています。
実際に樹肌に触れてみると、ほんのりとした温かみを感じ、苔むしている処は、逆に少し冷たさが伝わってきました。その枝ぶりからはまさに生涯現役という感じを受けました。赤松氏の栄枯盛衰を目の当たりにしてきたこのカヤの木ですが、今後もこの高台からここ赤松の集落、そして千種川の流れを見守っていてくれることを願って、松雲寺をあとにしました。
古の播磨を訪ねて~相生市編 その5
磐座(いわくら)神社のコヤスノキ
今回は相生市矢野町森に鎮座しています磐座神社の境内に生えているコヤスノキを訪ねました。このシリーズ82回目で取り上げました「矢野の大ムクノキ」の北側の橋を渡り、矢野川左岸沿いに約300m進むと、磐座神社に到着です。
磐座神社は、大ムクノキ越しに北東の方向に岩肌が見える権現山の麓に鎮座し、この権現山を御神体とする神社です。この神社は、仏教の影響を受けながら、巨石を対象とした民間信仰がいまだに続いている神社で、その辺りのことについては、このシリーズでもいつか取り上げてみたいと思っています。
さて、磐座神社には、鳥居をくぐった右手に相生市教育委員会の説明板があり、その脇にコヤスノキが1本植えてありました。さらに、奥の社殿の周りには比較的大きな木が数本生えていて、全てに「コヤスノキ」と札が付けてありますので、すぐ分かります。
コヤスノキは、国内では兵庫県の南西部から岡山県南東部にかけてのごく狭い範囲にのみ分布するトベラの仲間の常緑低木で、レッドデータブックで準絶滅危惧種に指定されています。生育地はアラカシの茂る薄暗い照葉樹林です。そのような林は日本のどこにでもあるのに、何故特定の地域でしか見られないのか、理由はよく分かっていないようです。
いずれにしましても、兵庫県内ではごく限られた処でしか生育しておらず、ここ磐座神社と上郡町の大避神社の社叢の「コヤスノキ」が、昭和9年に県の天然記念物に指定されています。
また、今回取り上げたコヤスノキは、名前の由来はハッキリしませんが、「子安木」という漢字を当てることや社寺林に多いことから安産信仰に関係があると考える研究者もいるようです。
境内には、イチョウやモミジの大木が幾本もあり、それに比べればコヤスノキは本当に細いものでした。若くない筆者ですが、境内のコヤスノキに「もっと大きくなれ!大きくなれ!」と、私なりにパワーを与えて、お社をあとにしました。
古の播磨を訪ねて~赤穂市編 その5
今回は、赤穂市東有年の沖田遺跡公園を訪ねました。上郡町を訪問するたびに右折した国道2号「有年原」の信号を通り過ぎること約1.9㎞、国道沿いの南に茅葺建物のある遺跡公園が見えてきます。
ところで、この有年地区には「有年原・田中遺跡」や「野田2号墳」など、弥生時代後期から古墳時代にかけての史跡が多く残っています。千種川が流れ、山や平地もあり、はるか昔から人間にとって生活しやすい場所であったと考えられます。また、医学博士松岡秀夫先生が開かれた「有年考古館」もあり、古代史に触れることのできる街といえます。
さて、当日は、管理人さんに色々と話を聞くことができました。ここ東有年・沖田遺跡公園は田園風景が広がる中にあります。この公園周辺では、ほ場整備に伴って調査が進められた結果、縄文時代後期(約3500年前)から室町時代(約600年前)にかけての遺構や遺跡が沢山見つかっています。その中で、公園は道を挟んで南側が「弥生時代ムラ」、北側が「古墳時代ムラ」として二つのゾーンに分かれて整備されています。
「弥生時代ムラ」には、弥生時代後期(約1800年前)の居住跡を復元した建造物があります。中でも、直径12mもある巨大な2号住宅は、通常の弥生式住宅よりは傑出した大きさで、兵庫県下でも最大級と言われています。
一方、「古墳時代ムラ」周辺では、古墳時代後期(約1400~1450年前)の竪穴住居跡が密集した状態で、また、高床建物も発掘され、そこからさまざまな遺物等(全国的にも珍しい土馬)が出土しています。それらは、当時のムラの成り立ちや生活の様子を考える上で重要な遺跡であることから、平成4年3月に兵庫県の重要文化財(史蹟)に指定されました。
この地では、上記のように、様々な出土物や遺跡が多く発掘されていることから、古代より高度な文明が栄えており、ここを統治するかなり有力なリーダーがいたのではないかと、想いはいつしか古代へと馳せていました。
古の播磨を訪ねて~稲美町編 その5
古の播磨を訪ねて~播磨町編 その5
古の播磨を訪ねて~小野市編 その5
古の播磨を訪ねて~姫路市編 その5
伊刀(いと)島
播磨国風土記の中で、現在の家島諸島についての記述箇所は、まず「餝磨(しかま)の郡」「少川(おがわ)の里」の条に『いと大きな牝鹿が海を泳ぎ渡って島に着きました。そこで、伊刀島と名づけました』とあります。
続いて、「揖保の郡」「伊刀島」の条には『色々な島の全体の名です。応神天皇が射目人(いめひと:射手)を餝磨の射目前(いめさき)に配置して狩りをなさいました。そのとき、我馬野(あがまの)から出てきた牝鹿が、この丘を横切って海に入り、伊刀島に泳ぎ渡りました。これを見ていた射手達が、語り合いました。鹿はいと早くあの島に到り着いた。そこで、伊刀島という名がつきました。』とあります。
また、同じ「揖保の郡」「石海(いはみ)の里」の条には『家島:人々が家を作って住んでいます。そこで家島という名がつきました。竹、黒葛(つづら)などが生えています。神島:伊刀島の東にあります。神島というわけは、この島の西の海岸に石神がいます。形が仏像に似ています。そこで島の名としました。この神の顔に五色の玉があります。また、胸にまで流れる涙がみられます。これも五色です。泣いているのは、応神天皇の御世に、新羅からの客が渡来しました。客はそのとき、この神の不思議な姿を見て、非常に珍しい玉だと思い、その顔を割って目の玉一つをえぐり取りました。そのため神は泣いているのです。神は大変怒って、すぐ暴風を起こし客の船を難破させました。船は高島の南の浜に漂流して沈み、新羅の人は皆死にました。そこで名づけて韓浜(からはま)といいます。今、ここを通り過ぎる者は、心を慎み、固く戒めて韓人(からひと)という言葉は口に出さず、盲目のことにも触れないようにします。高島:ここにある他の島より高いので高島と名づけました。』とあります。
このように、郡あるいは里を越えて、家島の記述がみられます。「伊刀島」の「イト」については、上記のように「餝磨の郡」と「揖保の郡」とでは、若干解釈は違いますが、今の「大変」という意味の古語と理解してよいでしょうし、そのあとの「家島」も記述内容からして、「伊刀島」と同じ島と考えられます。次に「神島」ですが、これは、今の「上島」が比定地とされ、「高島」は家島諸島で最も高い島ということから今の「西島」と推定されています。
さて、ここ家島には延喜式名神大社に列せられている家島神社が鎮座しています。延喜式神名帳に記載されている播磨の国の式内社47社中、名神大社に列せられているのは、現在の神戸市垂水区の海神社、宍粟市の伊和神社、たつの市の粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)と中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ)、そして、家島神社の5社だけです。これにより、この家島神社の社格がいかに高かったかが理解できると思います。
社伝によれば、家島という地名は、神武天皇が大和へ向かわれる途中、この地に寄港されたところ、港内が大変穏やかで、「あたかも家の中にいるようで静かだ」として、名づけられたということです。家島神社は、このとき、天神(あまつかみ)をお祀りし、海上安全と戦勝を祈願されたのが始まりとされています。
このお社は、実に約2600年前に建てられたことになります。また、神功皇后は、新羅に向かうにあたって、天神に祈願されたところ、全山がにわかに鳴動したので、この辺り一帯を「ゆする山」と呼ばれていたこともあるようです。
さて、ここ家島神社では、今年も7月24・25日に海上安全と五穀豊穣を祈願する天神祭りが斎行されました。この祭りのために特別にあつらえた豪華絢爛な檀尻船で演じられる勇壮な獅子舞。毎年、宮地区と真浦地区の皆さんによって舞われます。25日の昼宮では、心配な天気の中、家島神社の天神浜で両地区の檀尻船での共演が行われました。中でも、「真浦の獅子舞」は絶えることなく、約200年も続けられており、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されています。
ところで、古事記の「国生み神話」では、天神(あまつかみ)の命によりイザナギ、イザナミの二神が天の浮き橋から天沼矛(あめのぬぼこ)をさし降ろしてかきまわし、引き上げたその矛先から滴り落ちる潮が、おのずから固まってできた島がオノコロ島です。その後二度島造りに失敗し、次に淡路島・四国・隠岐・九州・壱岐・対馬・佐渡・本州という所謂「大八島」ができあがりました。
家島に残る伝説では、最初にできた島である「オノコロ島」が家島であり、西島の頂上にある巨石・コウナイ石が古事記に記載されている「天の御柱」であるというのです。この「オノコロ島」伝説は、家島の他にも淡路島、沼島、絵島等いろいろな島に伝わっていますが、延喜式での家島神社の破格な待遇は、神武天皇や神功皇后に関係しての瀬戸内航路の安全・要衝というだけでなく、家島がオノコロ島であるということにも関係しているのかもしれません。
播磨国風土記から思いは果てどもなく広がっていきましたが、姫路市の家島が日本で一番最初にできた島というのは、実にロマンのある話で、心なしかウキウキしてくる自分を感じました。 (餝磨の郡・揖保の郡)
古の播磨を訪ねて~高砂市編 その5
十輪寺
今回は、8月下旬に高砂市高砂町横町の宝瓶山十輪寺を訪ねました。加古川バイパス上りの高砂西ランプで降りて、そのまま明姫幹線を播州大橋の手前の古新西の信号から側道を直進。突き当たりを右折して加古川の右岸を下流方向へ。高砂市文化会館の西側を南へ進んで、北本町の信号を右折して東農人町の二つ目の信号から10m過ぎの少し細い十字路を左折して約200mで山門前に到着です。
当日はご住職がおられ、寺内を案内していただき、お話を伺うことができました。十輪寺は、平安時代初期、弘法大師が天皇の勅命により創建したと伝えられています。鎌倉時代の初期には、讃岐へ追放された法然上人が寺に立ち寄り、再興したことから、浄土宗に転宗しました。現在の本堂は、中興24世・律空が元禄6年(1693)に入山し、再建したと伝わっているようです。
この十輪寺は、文化財の宝庫と言ってもよく、先ず、16世紀の李氏朝鮮時代に描かれたと考えられている朝鮮仏画の名品・絹本着色五仏尊像は、国の重要文化財に指定されています。次に、本堂は、桁行9間・梁間8間・向拝3間の二重寄棟造の本瓦葺で、三方に広縁をめぐらした圧倒されるほどの重層な建造物です。内外陣の欄間の彫刻・内陣廻りの絵様彩色などは、優美で、装飾・意匠は文化の爛熟17世紀初頭の風格を持っており、県の重要文化財に指定されています。
また、見るからに立派な山門は享保15年(1730)の建立。東面は変形の棟門、両妻に金剛力士像を安置した切妻の脇棟が配されています。屋根は、本棟、脇棟共に本瓦葺。脇棟は、妻側にだけ柱を建て、その柱は下部が外側にせり出す特有の形で、この形が、山門の形を際立たせて、市指定の重要文化財になっています。また、庫裡・大玄関・小玄関・方丈も、その意匠をこらした優美さから市の重要文化財に指定されています。
当日は、残暑厳しき夕方でしたが、境内には人影もなく、ツクツクボウシが、からだ全体をゆすって盛んに鳴いており、木陰に入ると、心なしかひんやりとした風が吹いているように感じました。古今和歌集の藤原敏行の「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という和歌が頭をよぎり、木陰で、もうそこまできている秋の気配を感じました。
古の播磨を訪ねて~市川町編 その5
7月の下旬の炎天下の下、市川町上牛尾の笠形寺のコウヤマキを訪ねました。播但連絡有料道路の市川南ランプで降りて、すぐ右折し、県道34号線に入り、船坂トンネルの手前を左折。上牛尾の集落を抜けて笠形神社の大鳥居の手前の駐車場に到着。下車して杖を片手に、谷川のせせらぎと小鳥のさえずり以外何も聞こえない山道を歩くこと約15分、笠形寺に到着です。
笠形寺は天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山としています。当寺の縁起は白雉年間(650~654)にインドからの渡来僧・法道仙人により開創、平安時代の弘仁年間(810年頃)、慈覚大師により中興されたと伝わっています。ところで、このシリーズ33回目に触れた笠形山の中腹にある笠形神社の拝殿は、元はこの寺の本堂だったようです。寺伝によれば、現在地には、住職の暮らす庫裡だけがあった。それが、明治政府の神仏分離令により現在地に本堂が建立され、元あった寺の本堂は笠形神社の拝殿となったというのです。
さて、目指すコウヤマキは、真夏の炎天下にも負けず、境内西端で東西南北にその枝を鷹が羽を広げたが如く、大きく張り出していました。説明板によれば、推定樹齢450年、根周り約8.8m、高さ約21.0m、東西11.6m、南北11.2m、県下最大のコウヤマキで、昭和52年に兵庫県の天然記念物に指定されています。コウヤマキは、日本特産の常緑針葉樹で東北から九州にかけて広く分布し、和歌山県の高野山に多いことから、その名前が付きました。
聞くところによりますと、明治21年(1888)、庫裡が火災で全焼してしまい、その時このコウヤマキにも火の手が及び、北側に延びていた枝は全て焼けてしまったようです。傍へ寄って、見上げると、いまだに黒焦げの枝の基の部分が何箇所か残っています。九死に一生を得て、現在のように樹勢を取り戻して繁茂し続けていることは、まさに奇跡だと思いました。
ザラついた古木の樹皮に触れてみると谷川から吹いてくるひんやりとした風と違って温かい感触が伝わってきました。そして、何事にも負けないというような強い生命力を与えてくれたような気持になり、帰りの駐車場までの足取りも軽快なものになっていました。
古の播磨を訪ねて~神河町編 その5
大歳神社の大スギ
6月の下旬の梅雨の合間をぬって、神河町大畑の大歳神社の大スギを訪ねました。播但連絡有料道路の神崎南ランプで降りて、すぐ右折し、突き当りから国道312号線へ。北進して、公立神崎総合病院前の信号を右折し、県道8号線を北東のへ約5㎞。途中367号線に乗り換えて越知川沿いにさらに約5㎞。左手に目指す大スギが現れてきました。
この大スギは、推定樹齢は1000年以上、幹の周りは、目通りで約9.6m、樹高は約50m。スギでは、全国66位、県下では、養父市大久保氷ノ山のスギに次いで2位の大きさを誇っており、平成17年(2005)には兵庫県の天然記念物に指定されています。この巨木の横には、「神木 大杉さん」と刻まれた石碑が立てられており、地元では「大杉さん」と呼ばれて親しまれているようです。
この大スギは、推定樹齢1000年というだけあって、本体にもシリコンを詰めた補修のあとが見られました。地面から7~8mのところで分かれている枝も本幹とワイヤで三ヶ所で結ばれていて、本幹と枝が、そのワイヤを通してお互いに支え合っているように見えます。そばに寄ってその樹肌に触れると、炎天下にも関わらず、心なしかひんやりとした感じがし、そのまま幹を見上げた刹那、その巨大さに圧倒され、ただただ茫然としました。よく観察してみるとその枝葉はまだまだ元気な様子で、まさに生涯現役というイメージでした。
この「はりま風土記紀行」のシリーズで折に触れ、播磨の巨木を取り上げてきましたが、この大スギほどの巨木を目の当たりにしたのは初めてです。ここ大畑の大歳神社のご神木で、まさに神宿る大樹に触れ、自分の寿命も少し伸びたのではないかと思ったひとときでした。
古の播磨を訪ねて~福崎町編 その5
應聖寺(おうしょうじ)
6月の下旬、福崎町高岡の天台宗妙見山應聖寺を訪ねました。播但連絡有料道路の福崎北ランプで降りて、JR福崎駅の南を走る県道406号線を約2.5㎞ほど真っ直ぐ西へ進み、途中県道407号線に乗り換えて約900m、應聖寺に到着です。
寺伝によれば、白雉(はくち)年間(650~686年)に法道仙人によって開基されたと伝えられています。法道仙人はインドから渡来し、法華山一乗寺や御嶽山清水寺など、播磨地方に多くの寺院を開いたとされている高僧です。その後、文永2年(1265)に祐運大徳によって中興され、更に、南北朝時代には播磨守護職の赤松則祐の祈願所として再興され、七堂伽藍が整えられたと伝わっています。
この應聖寺は『沙羅の寺』として有名で、境内には沙羅の樹が200本以上あるといわれ、当日は満開の沙羅の花を堪能しました。一番奥には「さらりん」と呼ばれている「沙羅の樹の林」があります。沙羅の樹は、朝に美しい純白の五弁の花を開き、夕べには落下することから世の無常を表すものとして、平家物語の冒頭に「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」と出ています。
次に、本堂の南側には「涅槃の庭」があります。ここには、先代の住職桑谷祐廣和尚が延べ30余年の歳月を費やして制作した涅槃仏の頭と足があります。胴体はサツキの木を幾本も植え付けていて、花衣をまとう形になっています。
訪れた当日は、先代の奥様にお話をお聞きすることができました。祐廣和尚が余命3ヶ月と医者から宣告された時には、足の部分はまだまだ未完成の状態だったそうです。それから、体調不良の中、12年の歳月を費やして仏足石を完成させた後に、亡くなられたということでした。先代の並々ならぬ思い入れで、春夏秋冬季節ごとに衣を変えるこの見事な涅槃仏を完成されたという話をお伺いして、感動せずにはおられませんでした。
あらためて、涅槃仏の顔を拝見しますと、その穏やかな顔は参拝者である私を温かく迎えていただいているような気がし、しばらく、そこに佇んでしまいました。
古の播磨を訪ねて~明石市編 その5
住吉神社
今回は、6月下旬の梅雨の合間に、明石市魚住町中尾にある「住吉神社」を訪ねました。姫路バイパス上り高砂西ランプで降りて、明姫幹線に入り、加古川も越えて、ひたすら東へ。国立明石高専の南を通って、魚住町住吉1丁目の信号を右折し、山陽電車の踏切を越えて約300m、目的の住吉神社に到着。
伝承によれば、神功皇后が韓半島へ渡る際、播磨灘で暴風雨が起こったため魚住に避難され、住吉大神に祈願をすると、暴風雨が収まったといいます。そして、帰国後、神功皇后によって住吉大神は摂津国住吉に祀られました。
また、大阪の住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』によれば、「住吉大神より『播磨国に渡り住みたい。藤の枝の流れ着く処に祀れ』との宣託があり、藤の枝を海に浮かべると、魚住に流れ着いた。そこで、雄略天皇8年(464)に魚住に住吉大神を勧請したのが当社の創建とされ、その後、正応5年(1292)に現在地に遷座した」とのことです。明石市内には幾つかの住吉神社が鎮座していますが、魚住の住吉神社がその代表格とされる所以がここにある訳です。
当日は、禰宜の西海さんに案内いただきました。この住吉神社は風光明媚な名勝「錦が浦」に面しており、境内の能舞台は初代明石城主小笠原忠政が寛永年間(1624~1645)に建立したことが棟札から判明していて、明石市の有形民俗文化財に指定されています。また、鳥居・山門・楼門(明石市指定文化財)・能舞台・拝殿・本殿が一直線に並んでおり、当社のみが、東播地方に伝わる神社様式を今に伝えているということでした。その他、この住吉神社には、兵庫県指定の文化財の石造燈籠と神馬図絵馬、明石市指定の文化財の絵馬「加茂競馬の図」と大和型船模型など指定文化財が沢山あります。
そして、ここ住吉神社で注目すべきは、上記『住吉大社神代記』にも出てくる「藤」です。境内のいたるところに藤の木があり、とりわけ、本殿裏の神木は、「海からの穏やかな風に揺れる藤の花房。その下を通り抜けると、祓い清められたような清々しい気持ちになる」ことから「祓除(はらい)の藤」と呼ばれています。訪ねた時には、花の時期はとっくに過ぎていましたが、来年のゴールデンウィークには、是非ここ住吉神社を再訪し、藤の花で身も心も清めたいと思いつつ、帰路に着きました。
古の播磨を訪ねて~多可町編 その5
善光寺のイブキ
6月中旬に、中区東安田にある善光寺のイブキを訪ねました。中国自動車道滝野社ICで降りて、国道175号線を北上。『風土記紀行』の取材でこの175号線を何回通ったことか、と過去に思いを馳せながら西脇市の上戸田南の信号から国道427号線へ。西田町北の信号で、国道427号線から分かれ、ひたすら北進。県道139号線との交差点、東安田の信号を右折して道なりに約1㎞、目的地に到着です。
ここ医王山善光寺は妙心寺派に属し、本堂と薬師堂だけの無住の小さなお寺です。本堂に安置されていた阿弥陀立像は、現在は兵庫県立歴史博物館に寄託され、薬師三尊は、行基作と伝わる平安時代末のものです。薬師堂内には「願掛け石」と呼ばれている穴の開いた石が沢山供えられていて、いつの時代の物か不明ですが、治病を願う庶民信仰の名残と考えられているようです。(鍵がかかっていて見ることはできません。)そして、境内の薬師堂の前に威風堂々とそびえている巨木が今回目指してきたイブキです。このイブキは兵庫県の天然記念物にも指定されています。
説明板によると、高さ約17m、根回り約5m、樹齢500~600年とありました。言い伝えによると、戦国時代末期の天正年間、織田信長の命で、明智光秀がこの寺を攻め、薬師堂に火を放った際、本尊の薬師如来像は少しも燃えなかったため、怒った光秀が、地面に杖を突きたてると、その杖がたちまち根を張り、芽を吹き、このイブキになったといわれています。現在の巨木は、イブキ独特のねじれや、皮肌がむき出しになっていて、勇壮さを一段とひきたてています。
さて、この中区は、酒米の王者「山田錦」の母である「山田穂」を生んだ地です。その「山田穂」に父親品種の「短棹渡船(たんかわわたりぶね)」を交配し、昭和11年(1936)の水稲原種改廃協議会で新原種として認められて誕生したのが「山田錦」です。多可町では、平成5年から毎年日本酒の日である10月1日に歌手の加藤登紀子さんを招いての「日本酒の日コンサート」や、平成18年には、「山田錦」生誕70周年を記念して「日本酒で乾杯の町宣言」などが行われています。多可町の山紫水明が作り出した「山田錦」、日本酒愛好家で「はりま酒文化伝道師」でもある筆者は同じ播磨人として、いつまでもこの「山田錦」が酒米の最高峰として君臨することを願いつつ、多可町をあとにしました。
古の播磨を訪ねて~三木市編 その5
枚野(ひらの)の里・高野(たかの)の里
古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その5
敷草(しきくさ)の村
播磨国風土記には、「敷草の村 草を敷いて神の御座としました。だから、敷草と言います。この村に山があります。南方に離れること十里(約5㎞)ほどのところに沢があります。周りが2町(約200m)です。この沢に菅(すげ)が生えています。笠を作るのに最も適した菅です。檜・杉・栗・黄蓮・黒葛などが生えています。鉄(まがね)を産します。狼・熊が棲んでいます。」とあります。
ここに出てくる「しきくさ」がなまって「ちぐさ」となったと言われ、現在の千種町千種が推定地と考えられています。また、「山」は兵庫県第2位の高さの「三室山」が比定地とされています。このほか、笠をつくるのに非常に適した「すげ」が生えているとの記載もあります。元日本地名研究所長の故長谷川健一氏は、播磨学研究所編『播磨国風土記』の中で、「この『すげ』が単に植物の『菅』だけでなく金属をも表しており、これを受けて、この条の末尾には『鉄を産す』との記載がある」と記しておられます。
今回は五月半ばの宍粟の「山笑う」新緑の頃に千種町西河内の天児屋鉄山跡を訪ねました。ここは、上記のように古代より砂鉄を産し、その砂鉄は「カンナ流し」という手法で採取され、「千種鉄」として高い品質を誇りました。中世以降は、備前の刀匠たちに珍重され、数々の名刀を残しています。
昭和59年からの調査により、地下4m近く掘り込まれ、入念に排水、防湿工事が施されていた跡など、炉の地下構造が明らかになりました。先人が築いた「たたら製鉄」の足跡を後世に伝えるべく、平成9年4月「天児屋たたら公園」としてオープンし、平成14年4月9日には兵庫県の史跡地に指定されました。
また、ここ千種高原は「クリンソウ」が有名で、その群生地は、砂鉄を取った後の「真砂土」が溜まるカンナ池辺りを中心に約15ha。そのえも言われぬ群生の美しさは必見です。カンナ池跡は「湿地を好み、暑さに弱く、寒さに強い」クリンソウの生育に最適であったようです。古代から連綿と続いてきた千種鉄の「たたら遺跡」が、大自然の営みと相まり、現在にいたってクリンソウに最良の生育環境となった偶然に、ただただ驚嘆するばかりでした。辺り一面を薄紫色に染めるクリンソウを目の当たりにして、現代の私たちがこの環境を後世に守り伝えていく義務のようなものを感ぜずにはおられませんでした。(宍禾の郡柏野の里)
古の播磨を訪ねて~加西市・加東市編 その5
雲潤(うるみ)の里
播磨国風土記には、「土地は中の中です。うるみという名がついたのは、丹津日子(につひこ)の神が『法太(ほうだ)の川の下流を、山を越して、うるみの方に流したいと思う』と、そう言った時に、うるみの村にいらっしゃった太水(おほみず)の神が、断っておっしゃいました。『私は鹿・猪などの血で田を耕作します。だから、川の水はいりません』と。そのとき、丹津日子がおっしゃったことには、『この神は、水路を掘ることにウミて(いやになって)こう言っているだけです』そこで、雲弥(うみ)という名がつきました。今の人は雲潤(ウルミ)という名で呼びます。」とあります。
ここに出てくる「うるみ」がなまって現在の「うに」になったと考えられています。現在、加西市には宇仁(うに)地区があり、そこには、加西市立宇仁小学校があります。この宇仁小学校の校歌の一番に「文にもしるき宇仁の地」とあり、校長先生におうかがいしますと、この「文」は播磨国風土記と児童には説明しているとのことでした。風土記の「ウルミ」は長い歴史の中で、言葉は変わっても、今も頑張っています。また、この「雲潤の里」は、現在一般的には、加西市東北部の宇仁地区から加東市滝野北西部の上滝野辺りが比定地とされています。
播磨国風土記には、現在の加東市に関係する里として、今までに取り上げた「端鹿の里・穂積の里・起勢の里」と今回の「雲潤の里」の四里の記述があります。
加東市のこの「雲潤の里」の広がりを確認すべく古刹「五峯山光明寺(ごぶさんこうみょうじ)」を訪ねました。播磨中央公園のすぐそばにある光明寺は、海抜約260mの五峯山の頂上にあり、「播磨高野」と呼ばれ、真言75名刹の一寺に数えられています。また、新緑と紅葉の名所で「ひょうご森林浴場50選」に選定されており、春は、桜の花見客でにぎわい、秋は紅葉の名所で、境内の静けさと木々の紅葉とが、秋の深まりを感じさせる隠れたパワースポットのようです。
光明寺の本堂・文殊堂・常行堂等、塔頭の遍照院・大慈院等を拝観した後、見はらし台に登ると遥か彼方には明石海峡大橋の鉄塔をも望むことができました。そして、眼下には加古川を中心にした加東市・加西市の町並みを見ることができ、見はらし台からの大パノラマのその感動は、今も古代も変わらない豊穣の地播磨そのもののような気がしました。 (賀毛の郡)
古の播磨を訪ねて~太子町編 その5
枚方(ひらかた)の里
播磨国風土記には「土地は中の上です。枚方と名づけたわけは、河内国茨田(まむた)郡枚方の里の漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやってきて、初めてこの村に住みました。そこで枚方の里といいます。
佐比(さひ)佐比と名がついたわけは、出雲の大神が神尾山にいて、出雲の国
この条に出てくる「佐比岡」は現在の太子町佐用岡(さよおか)、「枚方」は佐用岡の小字の平方と考えられ、風土記の地名は今も頑張っています。また、「神尾山」は現在の笹山、「比古神」「比売神」が鎮まっていた所は、笹山にある男明神、女明神と呼ばれている所が比定地と伝わっています。
3月下旬のよく晴れた日に、太子町を訪ねました。先ず、笹山の東側を、男明神を目指して登りました。山道はかなり整備されていましたが、普段から運動不足の筆者にとっては大変なものでした。枯れ枝を杖にして、ゆっくり歩いて約20分、男明神に到着。当日は、天気が良すぎて、残念ながら少し霞んでいましたが、それでも、遥か南には家島諸島を望むことができ、眼下には風土記の「枚方の里」が広がっていました。次に、尾根伝いに女明神を目指しました。標識には0.91㎞とありました。途中、シイの木から吊るされた一本綱のブランコがあり、小休止がてら童心に戻って楽しみました。そして、女明神に到着。ここからは、風土記の「枚方の里」とたつの市街地の眺めを楽しむことができました。男明神・女明神ともに岩肌がむき出しになっていて、いかにも神が宿りそうな雰囲気の岩でした。
帰りに立ち寄った平方公民館では、ご近所の方に播磨国風土記では『ひらかたの里の中にさよ岡』があるが、それが長い歴史の中で、現在のように『さよ岡の小字がひらかた』となったことなど、地名の由来について色々とお話することもでき、有意義な太子町巡りの締めくくりとなりました。 (揖保の郡)
古の播磨を訪ねて~佐用町編 その5
柏原(かしはばら)の里
播磨国風土記には「柏の木が沢山生えているので、土地に名をつけました。
筌戸(うえと) 伊和の大神が、出雲から来られたとき、嶋村の岡を腰掛としてお座りになって、筌(うへ:竹で作った魚をとらえる器)をこの川に仕掛けられました。だから、筌戸という名がつきました。ところが、この筌には魚が入らないで、鹿が入りました。大神がこれを捕まえてナマスにして召し上がられたところ、口に入らないで地に落ちてしまいました。そこで、ここを去って他の所へお移りになりました。」とあります。
この柏原の里は、旧南光町の下徳久・西徳久・東徳久が比定地と考えられています。次に、嶋村は、川と川に挟まれて、嶋のようになっている地域、所謂、千種川と志文(しぶみ)川に挟まれている現在の米田地区、さらに筌戸は東徳久の小字の殿崎と考えられています。また、その筌を仕掛けた川は、場所的に考えて、現在の千種川が比定地とされ、当時から、千種川には沢山の魚がいたと考えられます。
この条で以前から問題視されているのが、魚を取る器である筌に鹿が入ることはあり得ないであろうということですが、本文中に「嶋村の岡を腰掛として」とあるように、この条は巨人伝承であるので大型の筌と解することで理解できると思います。
今回は、旧佐用郡南光町まで来たので、神亀5年(728)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開山した「船越山南光坊瑠璃寺」を訪ねました。旧南光町の町名の由来はこの「南光坊」にあります。本堂・金堂・薬師堂をはじめ、12の坊があり、開山以来1300年の長きにわたり、高野山真言宗の名刹であり、「西の高野山」として親しまれています。本堂の鐘は、兵庫県の重要文化財に指定されていて、この鐘には、赤松円心の末弟である覚祐が願主となり、応安2年(1369)に赤松一族が寄進したことが刻まれています。
ご本堂に続く苔むした階段を少し汗ばみながら上っていたとき、涼しい一陣の風が吹いてきて、思わず「薫風自南来」という北宋の詩人蘇東坡の詩の一節が頭に浮かんできました。もう五月がそこまで来ていることを実感し、爽やかな気分になった旧南光町訪問でした。 (讃容の郡)
古の播磨を訪ねて~加古川市編 その5
松原御井(まつばらのみい)
播磨国風土記には、印南別嬢(いなみのわけいらつめ)が亡くなられた後の条に、「このとき、景行天皇は別嬢を慕い悲しみ、『この川の物はこれからは絶対に食べないようにしよう』と誓われました。だから、加古川の鮎は、天皇の食べ物として献上されることはありません。その後、天皇は病気になられ、『よい薬が欲しい』とおっしゃられました。そこで、宮を思い出の賀古の松原に造って都から移られました。ある人が、ここに清水を掘り出しました。それで松原の御井といいます。」とあります。
播磨国風土記を紐解くと「井戸」に関する記述は沢山出てきます。このシリーズでも26回「託賀郡・都麻の里」や29回「賀毛郡・修布の里」、35回「賀毛郡・穂積の里」、74回「讃容郡・邑宝の里」等で取り上げましたが、まだまだあります。
この「松原御井」は、現在加古川市尾上町養田の工場街の西端にある小さな公園の中の井戸が比定地とされています。加古川のすぐ東を流れる「泊川」の遊歩道整備に伴い設けられた東屋があり、その中に憩いの場のように再現されています。「松原御井」という石碑も建立されており、また、設置してある説明板によると、本来の場所は加古川と泊川との中洲あたりにあったということです。そして、近くの神社のお祭り用の水として長い間使用されていたようですが、残念ですが、今は涸(か)れ井戸となって、砂利石が敷いてありました。加古川のすぐ傍ですから数mも掘れば水が滔々と湧き出るのではないかとも思いましたが、人気の少ない処ですので、安全面からも現在の状態の方が良いのかなとも考えました。
古の播磨を訪ねて~たつの市編 その5
播磨国風土記には、「元の名は鹿来墓(かぐはか)です。土地は下の上です。
鹿来墓と名づけるわけは、伊和の大神が国占めをなさったとき、鹿が出てきて山の峰に立ちました。山の峰もまた墓に似ていました。そこで鹿来墓と名づけました。後に、天智天皇の御世に、道守臣(みもりのおみ)が播磨国司になったとき
に、名を改めて香山としました。
家内谷(やぬちだに) これは香山の谷です。形が垣根をめぐらしているようになっています。そこで家内谷という名がつきました。」とあります。
揖保川の土手の土筆も芽を吹きだした3月初めに、たつの市新宮町を訪ねました。風土記によれば天智天皇の御世に、「カグハカ」から「カグヤマ」に地名が変わったというのです。このことについて、少し難しくなりますが、万葉集には「香具山・畝傍山・耳成山の大和三山」の争いの説話を詠った天智天皇の有名な歌があります。また、「播磨国風土記 揖保の郡 上岡の里」の条には、出雲の国の「阿菩(あぼ)の大神」が、その大和三山の争いを止めようとお思いになって、「上岡の里」(現在のたつの市神岡町)まで来られた時に、争いは収まったと記載されています。この「大和三山に関する天智天皇の歌と揖保の郡の言い伝え」をもとにして、天智天皇の御世に、大和三山の一つの「香具山」にちなんで、揖保の郡の「カグハカ」を「カグヤマ」と名前を変えたのではないかと言われており、現在のたつの市新宮町の「香山(こうやま)」が比定地とされています。
次に「家内谷(やぬちだに)」ですが、これは一般的には新宮町香山にある小字の「家氏(いよじ)」が比定地とされています。この「家氏(いよじ)」地区には「家氏(いえうじ)」という姓の家が現在3軒あります。「家内(やぬち)」→「いえうち」→「いえうじ」→「いよじ」と変化していったと考えられ、ここ新宮町でも播磨国風土記は健在でした。
さて、その家氏(いよじ)には、「皇祖神社」が鎮座しています。このお社の阿形の狛犬は、瓦製で、全国的にも非常に稀なものです。高さ37㎝で台座に彫られている銘文から、明徳元年(1390)に橘友重(たちばなともしげ)が制作したものと判明しています。橘氏は大和で活躍した瓦職人で、橘氏の作品としては播磨最古のものと言われ、兵庫県の重要文化財に指定されています。その他、狛犬のレプリカ等が境内のガラスケースに保管されています。 (揖保の郡)
古の播磨を訪ねて~西脇市編 その5
西林寺の唐子ツバキ
今回は3月上旬に、西脇市坂本の西林寺(さいりんじ)の唐子ツバキを訪ねました。中国自動車道滝野社ICで降りて、国道175号線をひたすら北へ。前回取り上げた「荒神社の大ムクノキ」へ向かう途中にあった「上戸田」の信号を通過し、右手に式内社大津神社を見ながらさらに北進し、「西脇寺内」の信号を左折して突き当りまで約1㎞、目指す西林寺の駐車場に到着です。
西林寺は高野山真言宗の仏教寺院で、山号は栢谷山(かやだにさん)。白雉(はくち)2年(651)法道仙人によって開基されたと伝えられる古刹で、平安時代の中期に天台宗の恵心僧都により中興された観音霊場です。
秘仏の本尊十一面観音立像は858~1067年頃作の一木造りで、兵庫県の重要文化財に指定されています。
また、この西林寺はアジサイ寺としても親しまれています。山門をくぐって、本堂まで参道が真っ直ぐに延びている左手に、広さ約12,000㎡、初夏には約10万株のアジサイが咲き誇る「都麻乃郷(つまのさと)あじさい園」があります。
ここに出てくる「都麻」とは「播磨国風土記」託賀(たか)郡に出てくる里名で、このシリーズ26回目でも取り上げましたが、現在の西脇市津万(つま)から黒田庄町津万井(つまい)辺りまでと考えられています。
さて、今日訪ねた唐子ツバキは、参道途中の右側「歓喜天」を祀る「西脇聖天堂」の境内にあり、真っ赤な花を沢山つけてその存在をアピールしていました。一般的なツバキは、5~6枚の花弁が周りについていて、その中に、黄色い花粉を付けた沢山の雄しべが雌しべを囲っています。
一方、この唐子ツバキは、真紅の花びらの中も雄しべが小さい花弁化した紅色で覆われていて、ツバキというよりも、シャクヤクかダリアに似た趣きです。この花の咲く様子が唐子人形の髪を結った形に似ていることからその名前がついたようです。
今まで、唐子ツバキは何回か見たことはありますが、このような、大きなものは初めてでした。樹齢200年以上、根回り1.2mもあり、県下ではこれほどの古木は無く、昭和56年(1981)兵庫県の天然記念物にも指定されています。
春にはツバキ・サクラ、初夏にはアジサイ、秋には紅葉と四季折々に訪れる人々を楽しませてくれる西林寺。次は、一目10万株のアジサイを愛でたく思いました。
古の播磨を訪ねて~西脇市編 その4
荒神社のムクノキ
今回は2月中旬に西脇市鹿野町字森の本の荒神社のムクノキを訪ねました。あちらこちらから春の便りが届いてくるも、冬型の気圧配置になった非常に寒い日でした。
中国自動車道の滝野社ICで降りて、国道175号線を北上し、上戸田の信号を右折して県道566号に入りました。そして、加古川に架る鹿野大橋を渡って、比延(ひえ)郵便局のところの信号を左折して約300m、姫路市の南西部の端にある自宅を出て約1時間、やっと荒神社に到着しました。
地域の方からは「荒神の森」と呼ばれているようです。途中、神社を離れた街中から見ますと、その荒神の森の中で、一段とひときわ高くそびえている木がありました。境内に入って、その高木が今回目指すムクノキであることがわかりました。
鹿野町の説明板によると、このムクノキは、幹周り650㎝、樹高26m、推定樹齢650年の巨木で、ムクノキとしては兵庫県下で第4位の大きさを誇り、全国的にみても15位以内に入るそうです。流石に650年という長い間風雪にさらされているため、古木という感じは拒めませんが、近づいてみると、象の鼻のような巨大な根を辺り一帯に張り巡らし、その根でしっかりと大地をつかんでいるように見えます。平成16年3月9日には、兵庫県の天然記念物に指定されました。
また、境内には、サクラ・コガ・ケヤキ・ヒノキ・スギなどの木が生い茂り、夏場にはまさに鎮守の森を形作っていることだろうと想像しました。
境内の傍らには、かつて兵庫県の天然記念物に指定されていたイチイガシの巨木が生えていたそうですが、平成13(2001)年に自然倒木してしまい、現在は、その巨大な切株が残されています。かつては、この2本の巨木が、永い間、荒神社をはじめ、「森の本」の人々や歴史を見守っていたのであろうと思いました。そして、今はムクノキ1本になってしまい、その残されたムクノキの気持ちを慮ると、心なしか寂しい気持ちになってきました。
古の播磨を訪ねて~多可町編 その4
青玉神社
1月下旬に多可町加美区鳥羽(とりま)の青玉神社を訪ねました。専任の宮司はおられず、詳しい話は聞くことができませんでした。境内の説明板によると、御祭神は天戸間見命(あまのとまみのみこと)・大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)で、元は播磨・丹波・但馬の境である三国岳の頂上に鎮座していましたが、後に南の現在の鳥羽の地に遷座されたようです。さて、この「とりま」という地名ですが、この遷座した「祭場:まつりば」が「とりば」と訛り、それに「鳥羽」の文字が当てられ、さらに訛って「とりま」と呼ばれるようになったようです。
ご社殿は、国道427号線から、参道を100mほど入った処に鎮座しています。本殿は一間社流造杮葺(いっけんしゃながれつくりこけらぶき)、幣殿は切妻造檜皮葺(ひはだぶき)、拝殿は入母屋造萱葺(かやぶき)で、どっしりとしたご社殿が、冷気漂う凛とした清閑なスギ林の中に鎮座しています。
このスギ木立の中でも特に群生の7本は樹齢600年~1000年の巨木で昭和43年(1968)に兵庫県の天然記念物に指定されています。本殿に向かって左後ろには、幹周り約9.5m、根回り11.37m、樹高45m、という青玉神社社叢の中で、最大の巨木「夫婦杉」が辺りを圧倒して立っています。この夫婦杉は、過去2回その生存が危ぶまれたことがあるようです。しかし、その都度、多くの住民の拠出金やライオンズクラブの寄付金等により、樹木医による調査等が行われて、保存修理されて、今の元気な姿になったようです。
また、拝殿に向かって右手前には、「母乳の神木(ちちのき)」と言われているイチョウの木があります。太い枝のいたるところから大きな乳房に似た変形枝が出ています。それに触れると、女性の乳の悩みが解決するという言い伝えがあるそうです。
多可町の一番奥まで来て、改めて播磨国風土記託賀郡の冒頭部分の「巨人伝説」を思い出しました。天も山も高く、みどり広がる大地を、巨人は力いっぱい体を伸ばして、満足げにゆったりとした足取りで歩いている様子を想像し、私もゆったりとした気持ちで車を運転して帰路に着きました。
古の播磨を訪ねて~上郡町編その4
髙嶺神社
1月中旬の寒い日に、上郡町山野里の髙嶺神社を訪ねました。国道373号線の千種川に架る「あゆみ橋」の東詰を左折して県道5号線に入り、「上郡中央公園」を通り過ぎ、「ピュアランド山の里」の前を通過。後は、ヘアピンカーブの連続で、それを何とか乗り越えて、髙峯山(たかみねやま)の頂上にある髙嶺神社に辿り着きました。社務所をお訪ねしますと、深澤景弘宮司がいらっしゃり、色々と詳しくご説明いただくことができました。
宮司によりますと、髙嶺神社略記には、次のような記述があるようです。かつては東の広峯神社、西の髙嶺神社と言われ、兄弟社として栄えました。ともに牛頭天王(ごずてんのう:スサノオノミコト)をお祀りしています。天禄3年(972)に鎮悪除災の神として第64代円融天皇の勅命により祀られ、その後、萬寿2年(1025)に第68代後一条天皇の勅命により大祭典が執り行われました。そして、60年後の応徳元年(1085)干支の乙丑(きのとうし)年には、萬寿の儀式にならい、大開帳(おおかいちょう)と言われる式年大祭が執り行われ、以後60年毎のこのお祭りは、乙丑(いっちゅう)大祭として、災害・疫病・事変などから、国家・地域の安全を祈るお祭りとなりました。
昨年はその丁度半分の30年目に当たり、施設の護持・関係文化の伝承・知識や技術の継承を目的として、中開帳(なかかいちょう)と言わる大祭が5月3日~5日に厳粛に執り行われました。
現在本殿は上郡町の有形文化財に、お田植祭と穂揃祭、獅子舞は無形民俗文化財に、そして、ご神木の千年杉は天然記念物にそれぞれ指定されていて、流石に由緒ある神社と感心しました。
また、本殿は、昭和60年に三間社入妻流造の檜皮葺から銅板葺に変えられましたが、この歴史あるお社の屋根の葺き替えの指揮を執ったのが、姫路城昭和の大修理の和田通夫棟梁とお聞きし、さらに驚きました。
かつては徒歩で登り、参拝するしかなかった参道を、車で悠々と登り、あの和田通夫棟梁が手がけられた由緒ある髙嶺神社に参拝できたことのありがたさ、そして、本当に寒い中を、色々とご説明、ご案内いただいた深澤宮司にも感謝し、上郡町の隠れたパワースポットを発見した気持ちになって下山しました。
古の播磨を訪ねて~相生市編 その4
矢野の大ムクノキ
年明けの1月初旬に相生市矢野町森の「矢野の大ムクノキ」を訪ねました。
姫路から国道2号線を西へと進み、相生市竜泉の交差点を右折して県道44号線を北進しすると、相生市矢野町森を流れる矢野川の法面に主幹を斜めに突き出した目的の大ムクノキを発見。
兵庫県教育委員会の説明板には、根回り4.8m、高さ15mとあり、樹齢は推定600年以上で、昭和58年(1983)3月29日に兵庫県の天然記念物に指定されたと記してありました。また、その昔、この地に荒神社の杜があって、このムクノキは、そのお社のご神木として祀られ、大切に保護されていたために、区画整理のときも伐採されることもなく、今に残っているのだということです。
よく見るとそのムクノキは、主幹が途中で折れており、大きな枝が、東南アジアの水牛の角のように大きく曲がりくねっていて、あたかも主幹と見間違えるほどに張り出しています。ご近所のご婦人に尋ねると「何百年も前に雷が落ちて主幹が折れ、その後、枝が大きくなったと、この辺りでは伝わっている。」とのことでした。また、以前の矢野川の護岸工事のときに、この大ムクノキをどうするか、県の河川課の方も困り果てたようですが、誰からも「切り倒す」という話は出なかったということで、工事はこの大ムクノキを避けて行われ、お蔭で春夏秋冬、様々な美しい姿を見せてくれているようです。ご婦人曰く「いつの季節もよろしいが、春先の緑は筆舌に尽くし難い美しさですよ。是非一度。」とのことでした。
その大きな枝を周り一帯に伸ばし、その威風堂々とした姿で辺りを圧倒しながらも、小鳥たちに実を与え・育み、小鳥がさえずり・たわむれる様子は、真冬にもかかわらず何かのテレビのコマーシャルのような温かい気持ちになりました。
古の播磨を訪ねて~赤穂市編 その4
赤穂八幡宮
新年1月3日に、赤穂市尾崎の「赤穂八幡宮」に初詣にでかけました。先ず、お社の立派なたたずまいにただただ驚かされ、社務所を訪問しますと、中村権禰宜さんがおられ、色々とお話を伺うことができました。
権禰宜によると、神社の赤穂八幡宮由緒略記には、こちらのお社は室町時代の応永13年(1406)に、現在の地に勧請されたとあり、今のお社は、享保3年(1718)に建立されたと記されているようです。
現在、拝殿は、唐破風の上に千鳥破風を重ねた重層な入り母屋千鳥唐破風のけやき造となっていて、本殿は、平成15年に檜皮葺から銅板葺きに変えられました。
このお社は、赤穂義士ゆかりの神社で、大石内蔵助良雄(よしたか)の誕生を祝って祖父が奉納した絵馬、内蔵助公自筆の掛け軸やお手植えのハゼの木、貞享4年(1687)に寄進された石灯籠、妻りくの書状などが残っています。
また、秋祭りの獅子舞は殊に有名です。先ず、気性の荒い雌雄2頭の野獅子が眠っているところを、浅野内匠頭長矩公・大石内蔵助公奉納の太鼓の打ち出しにより覚醒させます。そして、目覚めた2頭の獅子の勇壮な道中舞いにより悪霊を払い清めながら神輿の前を進んで行くものです。
この獅子舞は、平成17年に兵庫県重要無形民俗文化財に指定され、昨年11月8日には、岐阜県郡上市で開催された文化庁主催の第57回「近畿・東海・北陸ブロック民俗芸能大会岐阜大会」に兵庫県を代表して出演され、その力強く迫力のある演技に、会場から大喝采を受けたそうです。
この話をお聞きして、筆者は平成10年10月25日に姫路市民会館で開催された第40回「近畿・東海・北陸ブロック民俗芸能大会兵庫大会」を思い出しました。筆者はその時の担当で、先ず、大塩天満宮の獅子舞に「大会の露払」の舞いをお願いし、兵庫県代表として御津町室津の賀茂神社に伝わる「小五月祭・棹の歌」を披露していただきました。
17年前、大塩と室津の皆さんには町を上げて応援していただいたことが、あたかも昨日のごとくよみがえって来て、感無量になった赤穂八幡宮初詣でした。
古の播磨を訪ねて~小野市編 その4
極楽山浄土寺
12月初旬の晴れた日に小野市浄谷町(きよたにちょう)の国宝「浄土寺」を訪ねました。幸い、ご住職にお会いすることができ、色々とお話を伺うことができました。
浄土寺の浄土堂は、俊乗房重源(ちょうげん)により、建久8年(1197)に建立されました。このお堂は、内側の柱間約6mの大柱4本と、外側の正面・側面ともに、やはり柱間が約6mで、一辺に4本・合計12本の柱、総計16本の柱で支えられていて、階を持たない簡素な平面構造になっています。また、床以外の柱・組み物等全ての木は朱塗りになっていて、天井を張らず、梁(はり)や貫(ぬき)の豪快な骨組みをそのまま見せる大仏様(だいぶつよう)建築の代表といわれています。屋根は四角錘の宝形造(ほうぎょうづくり)で、本瓦葺、そして、ほとんど反りが無く勾配は直線的です。昭和27年3月29日に国宝に指定されました。
次にご本尊の阿弥陀三尊立像ですが、ご住職のお話によると、寺に伝わる「浄土寺縁起」には「一丈六尺金堂の阿弥陀如来と八尺の観音・勢至を各一体安置し、仏師快慶によって造られ、建久八年(1197)に落慶法要を行った」と記されているそうです。重源と快慶とは仏教上の師弟関係にあったため、師の重源の依頼により快慶がこの地でこの3体の仏像を彫ったもので、こちらは昭和39年5月26日に国宝に指定されています。
ところで、この浄土堂は境内の西の端、いわゆる極楽浄土の位置する側に建てられているので、阿弥陀三尊像は東向きに立つ形になっています。晴れた日には、西陽が背面の蔀戸(しとみど)より差し込み、お堂の中が美しい朱色に染まった中に、阿弥陀三尊像が浮かび上がるという、まさに西方浄土の世界を再現した造りとなっています。
境内を拝見し終わり、帰る頃になって「ともかくもあなた任せの年の暮」の一句が頭をよぎりました。これは、小林一茶の『おらが春』の巻尾に据えられた句です。「あなた」とは「阿弥陀仏」のことで「色々なことのあったこの一年だが、とにもかくにも阿弥陀さまのお慈悲におすがりする年の暮であることよ」という心情を詠んだ句で、まるで、筆者の気持ちそのものを表したような句と感じ、再度浄土堂の阿弥陀さまを拝んで、浄土寺をあとにしました。
古の播磨を訪ねて~播磨町編 その4
播磨町指定天然記念物クスノキ
11月初旬に播磨町の町指定天然記念物である2ヶ所のクスノキを訪ねました。
先ず1本目は播磨町二子立辻(ふたごたてつじ)の二子住吉神社のクスノキです。
拝殿に向かって左端手前にドッシリと、根も充分に張った御神木のクスノキがそびえており、樹齢約500年と言われています。社伝によるこのお社の創建は貞享3年(1686)ですから、神社創建前からこの地に根付いていたことになります。昭和40年(1965)の台風で大きな被害を受け、根も浮き上がってしまっていたようですが、氏子の皆さんの懸命の努力と手厚い保護により枯死を免れ、現在は樹勢も回復して、まだまだ成長半ばといった感じです。
播磨町内で最も古い樹木と言われ、今後は、台風や干ばつ、猛烈な北風にも負けることなく、この播磨町の発展を見守る、より貴重な大木となっていくと思いました。
次は播磨町立播磨小学校のクスノキです。小学校は明治33年(1900)に現在の地に移転してきました。そのころは、阿閇(あへ)尋常小学校と呼ばれていて、この地に移転してきた記念樹として8本のクスノキが植えられたようです。
ところが、昭和23年(1948)に、運動場拡張のために西端の1本だけを残して他の7本は伐採されてしまいました。残されたこの1本は、今後も小学校の歴史を語り継ぐ証人として存在していくことは確かです。この貴重なクスノキは二子住吉神社のクスノキと共に、平成12年5月10日に播磨町の天然記念物に指定されました。
訪問した当日は、運動場のこのクスノキの傍らで、小学生が元気よく体育の授業を受けていました。これからも、播磨小学校の児童の成長の姿、そして、播磨小学校の進化発展していく様子をじっと見守ってくれることを確信し、クスノキや小学生から元気をもらったような気がしながら小学校をあとにしました。
古の播磨を訪ねて~稲美町編 その4
高薗寺
古の播磨を訪ねて~福崎町編 その4
岩尾神社
古の播磨を訪ねて~市川町編 その4
小室(こむろ)天満神社
今回は秋祭りが盛んになる前の10月の初めに市川町小室の「小室天満神社」を訪ねました。
播但連絡道路市川南ランプで降りて、このシリーズ16回目に取り上げました市川町立川辺(かわなべ)小学校のすぐ北を通り、さらに、市川町役場の前を過ぎて、県道215号線・県道404号線を北へ走りました。
小室地区に入ると、左前方に小さな森が見えてきて「小室天満神社・おかげ燈籠・大クスノキ」の標識が上がっていました。この標識を左折して100mほど進むと、道の北側に「小室天満神社」が鎮座していました。
この「小室天満神社」のご祭神は、当然菅原道真公ですが、創建年代ははっきりしていないようです。
境内の入口には、江戸時代に盛んに行われた神宮(伊勢神宮の正式名は神宮)おかげ参りの「おかげ踊燈籠」が建っていました。「天保三年(1832)・太神宮」の刻銘があります。文政13年(1830)頃に「おかげ参り」が最流行し、日本各地からお伊勢さんへ人々が押し寄せ、その数、500万人とも言われています。続いて、この時期関西の各村では「おかげ踊り」が流行しました。この燈籠は「お伊勢さんおかげ参り・おかげ踊り」を知りうる貴重な資料で、市川町の重要文化財にも指定されています。
次に、鳥居をくぐってお社を拝見しますと、拝殿に向かって左端手前に大クスノキが、どっしりとしながらも非常に端正な感じで空も狭しとそびえていました。拝殿の半分以上を覆うほどの立派なその木は、市川町の天然記念物に指定されています。
近づいてみると、幹周り6.30m・樹高35mで、根張りもしっかりしていて、よくありがちな腐朽による洞穴もなく、まだまだ樹勢のある大クスノキでした。首の疲れも忘れて、しばらく仰ぎ見、その枝葉の素晴らしさに見入ってしまいました。
古の播磨を訪ねて~加東市編 その4
起勢(こせ)の里
播磨国風土記には、「土地は下の中です。起勢と名づけたのは、巨勢部(こせべ)らが、この村にいたので、里の名としました。臭江(くさえ)臭江という名がついたのは、第15代応神天皇の御世に播磨の国の農村に、我こそは村長だという者が沢山いて、それぞれが自分の村の中で互いに闘っていたとき、天皇の命令によって、この村に追い出して集めて、みんな切り殺してしまいました。死骸のにおいが臭かったので臭江といいます。また、その血は黒く流れました。だから、黒川といいます。」とあります。
先ず、風土記後半の「臭江」ですが、ここの記述から大和政権の権力が、まだ完全に行き渡っていない状態であったことを示していると一般的には解釈されています。また、現在小野市には「黒川町」という町名は残っていますが、血で川が黒く流れたという「黒川」の比定地については、ハッキリしていないようです。
次に「こせ」についてですが、現在加東市には、「西古瀬・中古瀬・東古瀬」という町名が残っています。この中で、中古瀬と東古瀬は、このシリーズ44回目『小目野(おめの)』の中で取り上げました北播磨第一の大社と言われている式内社「佐保神社」の氏子になります。
また、現在のこの辺りは、平池公園や起勢(きせ)の里総合運動公園となっていて、周辺には、小学校・幼稚園・児童館などがあり、落ち着いた雰囲気の文教区域となっています。
ただ、残念なことは、現在は上記のように「きせのさと」と言います。「起勢の里」を、播磨国風土記のように「こせのさと」と言うのは、今の時代、少し難しいかなと思いながらも、地名が「古瀬」と字は変わっても「こせ」の発音で今に残っているのですから、播磨国風土記のままに「こせのさと」とすれば、その名前の由来等も含めて、未来永劫に語り継がれていくだろうにと、少し残念な気持ちがしました。
事実、ご近所の方や起勢の里総合運動公園の方に、「もともとは『こせのさと』というのですが、ご存知ですか?」と尋ねましたが、やはりどなたもご存じなかったです。
(賀毛の郡)
古の播磨を訪ねて~佐用町編 その4
邑宝(おほ)の里
播磨国風土記には「土地は中の上です。弥麻津比古命(みまつひこのみこと)が井戸を掘って、カレイヒを召し上がって、おっしゃいました。『私は、多(おほ)くの土地を占めてきた。』そこで、大(おほ)の村といいます。井戸を掘らせたところを御井(みゐ)の村という名がつきました。
鍬柄(くわえ)川神日子命(かむひこのみこと)の鍬の柄を、この山で取らせになりました。そこで、その山の川を鍬柄川といいます。」とあります。
9月上旬の残暑厳しい日に、佐用町を訪ねました。国道2号線の「有年原」の信号を右折して国道373号線に入り、このシリーズ第62回で取り上げた上郡町苔縄の「法雲寺」を左手に望みながら、千種川沿いをひたすら北へ走りました。久崎三差路の信号を右折し、智頭急行線の久崎駅の案内板でおおよその見当をつけ「円光寺・秋里川・上秋里・仁位(にい)・飛龍の滝」へ向かいました。
「邑宝の里」の中心は、一般的には現在の「旧上月町円光寺」付近と考えられています。ミマツヒコノミコトとは、第5代孝昭天皇と考えられていて、この条は、その孝昭天皇が、水路等を開き、水田を潤す大事業が終わって、多くの土地を得たと満足した部分と考えられ、風土記の中では「大の村」と言っています。
最初に井戸を掘って水路を設けた所を「御井村」と言い、ここは、現在の「円光寺トンネル」を北へぬけてすぐ右の、佐用川左岸の「旧上月町仁位」に比定されていて、実際この「仁位」は広い盆地で、今も水田耕作が盛んです。
次に本文中の「鍬柄川」は、現在の「秋里川」と比定されています。この川は上秋里に水源を持ち、円光寺の西部で佐用川に流れ込み、さらに久崎で千種川と合流して大河となり、上郡町・赤穂市を通って瀬戸内海に流れ込んでいきます。
今回は、はるばる佐用町上月までやってきましたので、「軍師官兵衛」のオープニングのロケ地の1つ「飛龍の滝」を訪問してきました。「飛龍の滝」へは、案内板が順次掲げてあって、途中からは1本道で迷うことなく車を進めることが出来ました。
車を降り、私の足で3分ほどで滝壺まで辿り着くと、目の前に確かに「軍師官兵衛」のオープニングの滝がありました。他に観光客もいなく、世の喧騒から逃れ、涼しい滝壺の傍で、時の過ぎ往くのも忘れて一人佇んでしまいました。
佐用町観光協会サイト 「飛龍の滝」紹介ページ
http://sayo-kanko.com/miru/hiryuunotaki
(讃容の郡)
古の播磨を訪ねて~高砂市編 その4
高砂神社
今回は、8月下旬に高砂市高砂町東宮町190の高砂神社を訪ねました。
『あかあかと日はつれなくも秋の風』と芭蕉の句が頭をよぎりますが、当日は、快晴の残暑厳しい日でした。そんな炎天下の元、じっくりと境内を拝観させていただきました。
先ず、阪神淡路大震災で倒壊してしまった後の平成7年に建て替えられた大鳥居は立派なもので、その奥にある山門は、よく見ると、組み物や彫刻など細かいところまでなかなか意匠をこらしたものでした。
そして、山門をくぐると、右手には高砂市指定の天然記念物で、樹齢1000年を超えるというご神木のいぶき(槙柏)が、出迎えてくれます。不思議なことにその枝葉を全て本殿の方に向け、1000年の風雪に耐えて根を張っています。その堂々たる威風に、思わず柏手を打ってしまいました。
次に、拝殿・幣殿、そして、木の薄板を敷き詰めたこけら葺きの本殿に続いていきます。
さて、古くから謡曲「高砂やこの浦船に帆を上げて・・・」と、親しまれている高砂神社は、神功(じんぐう)皇后の命によって創建されたと伝えられ、素盞鳴尊(すさのをのみこと)とそのお后奇稲田姫(くしなだひめ)、その王子の大己貴命(おおなむちのみこと)の三神をご祭神として祀られています。
また、社伝によると、"縁結びの松として知られる「相生の松」が高砂神社に生え出たのは、神社が創建されて間もない頃で、その根は一つで、雌雄の幹に分かれていた。これを見る人は「神木霊松」と称えていたところ、尉(じょう)と姥(うば)の二神が現われて『我らは、今よりこの木に宿り、世に夫婦の道を示さん』と告げられた。これより「相生の松」と呼び、この二神を「尉と姥:おじいさんとおばあさん」として、めでたい結婚式には、なくてはならないいわれになった"ということです。
現在は、故秩父宮勢津子妃殿下御命名の「5代目相生の松」が、本殿東側の玉垣の中で、緑の色も濃く立ち栄え、伸び伸びと生育しています。
境内南東部分には謡曲高砂を演じる立派な能舞台もあります。この上記一連の話が高砂市が掲げている「ブライダル宣言都市高砂市」のいわれで、改めて、まことに目出度し、目出度しと思った次第です。
古の播磨を訪ねて~神河町編 その4
古の播磨を訪ねて~三木市編 その4
吉川(えがわ)の里
古の播磨を訪ねて~加西市編 その4
古の播磨を訪ねて~加古川市編 その4
含芸(かむき)の里
播磨国風土記には
「元の名は瓶落(かめおち)です。土地は中の上です。瓶落と名づけたわけは、第16代仁徳天皇の御世に、私部(きさきべ)の弓取(ゆみとり)らの先祖、他田熊千(おさだのくまち)が、酒を入れた瓶を馬の尻につけて、どこに家を作ろうかと探していたとき、その瓶が、この村に落ちました。そこで瓶落といいます。
また酒山があります。第12代景行天皇の御世に、酒の泉が湧き出しました。そこで酒山と言います。農家の人たちが飲んで、酔っぱらって大喧嘩をしたので、埋めて塞がせてしまいました。その後、第38代天智天皇9年(670)の御世に、ある人が掘ってみたところ、まだ酒の気がありました。」とあります。
今回は加古川市を訪問しました。加古川バイパス加古川西ランプで降りると、そこは東神吉町(ひがしかんきちょう)西井ノ口です。現在、加古川市には東神吉町・西神吉町があり、その大まかな範囲はJR山陽本線より北で、東は加古川、西は高砂市、北は加古川市志方町に挟まれた地域でかなり広範囲に及びます。
また、公共の建造物としては、「加古川市立西神吉小学校・東神吉小学校・東神吉南小学校・神吉中学校」が「カンキ」の名前を今に伝えています。
次に、神吉中学校から北西約2㎞に存在する「宮山」の南麓には、第15代応神天皇をご祭神とする「神吉八幡神社」が鎮座し、立派なご社殿を誇っています。「神吉」の一番北に鎮座ましまし、南に広がる「神吉」の町々を見守っているように感じられました。
このお社は、応永3年(1396)大国村に創建されましたが、その後、応仁2年(1468)に現在地に移転されています。毎年10月15日の秋季例大祭には、布団屋台が出て、大いに賑わうようです。
最後に、元の名前の「カメオチ」と「酒山」ですが、「カメオチ」が訛って「カムキ」になったような気もしますが、地元の人々にお聞きしましたが、流石に「カメオチ・酒山」という地名もしくは建造物等は、残念ですが今に残っていないようでした。
播磨国風土記本文のように「酒の泉」があれば、アルコール好きの人にとっては、無上の喜びというか、それこそ夢のような話だろうな、と思いながら帰路につきました。(印南の郡)
古の播磨を訪ねて~たつの市編 その4
布勢駅家(ふせのうまや)
今回も『播磨国風土記』を少し離れて、たつの市揖西町小犬丸の「布勢駅家」を訪ねました。
「駅家」の数は時代により変遷していますが、927年に編纂された『延喜式』には、全国に402の「駅家」があったことが記載されていて、それによると、播磨国山陽道には7ヶ所存在したことが分かります。
400以上もあった「駅家」の存在場所については、「この辺りらしい!?」というところまでは、分かっていても、いずれもハッキリとした比定地はありませんでした。
ところが、昭和61年1月から実施された「小犬丸遺跡」の発掘調査により、数ある駅家の遺跡の中で、ここぞ「布勢駅家跡」と、駅家跡としては全国で初めて比定され、高校の日本史の教科書にも載るような大発見だったそうです。
当時の県の埋蔵文化財調査事務所によれば、文献による「駅家」は、瓦葺の建物であったようです。従来は、瓦が出土すれば寺院跡と考えるのが一般的でしたが、播磨国で古代山陽道上に、奈良時代後期の播磨国府系瓦がまとまって出土する遺跡は12ヶ所あり、このうちで、塔跡があって、確実に寺と分かるものは、5ヶ所しかなく、残りの7ヶ所は何なのか?という疑問が起こりました。
ところが、『延喜式』の7ヶ所の「駅家」は、ほぼ前述の国府系瓦出土遺跡と重なるのです。
このようにして、「小犬丸遺跡」は「布勢駅家跡」と推定され、それに『驛』や『布勢』の地名の墨書土器が出土していることが、このことを裏づける有力な証拠となったということです。
その後、『延喜式』以前に廃止された「邑美駅家・佐突駅家」が存在したことも研究により分かってきました。
今回も「駅家」を考察してきました。これで、播磨国の東から、「明石・邑美・加古・佐突・大市・布勢・高田・野磨」と8つの「駅家」をおさえることが出来ました。
残りは姫路の「草上駅家」だけですが、これが、諸説紛々としていて、さてさて、どこに存在したのか?そして、この「駅家」を直線的に結んでいた播磨古道はどこを通っていたのか?ロマンは果てしなく広がっていきます。
古の播磨を訪ねて~姫路市編 その4
佐突駅家(さつちのうまや)
今回は、紫陽花が梅雨の合間の太陽に美しく映える6月の上旬に、姫路市別所町北宿の「佐突駅家」を訪ねました。国道2号線沿いに「佐突駅家跡」という石碑が建立されています。
「佐突駅家」は、『播磨国風土記』は勿論ですが『延喜式』にも記載がありません。ただ、『続日本後記』承和六年(839)二月戊寅(つちのえとら)二十六日の条に「播磨國印南郡佐突駅家、旧に依(よ)りて建立す」と記されています。「旧に依りて」ということですから、一旦廃止されていた「駅家」を再び設置したものと思われます。
ここには、かつて「北宿廃寺」と呼ばれ、旧山陽道想定路線の南に瓦の出土する遺跡がありました。その後の発掘で、播磨国府系瓦の「北宿式」の名前のもととなったこの「北宿遺跡」こそ、この「佐突駅家」と考えられるようになっています。
また、この「駅家跡」の北東数百メートルのところにある白陵中・高校付近は、小字名を「馬ケ谷」と言い、古代、その谷間という地形を利用して、駅馬を放牧していたと考えられています。
ただ、この遺跡周辺は大正時代から工場造成が盛んに行われ、特に近年の道路整備等、市街化は著しく、残念ですが「佐突駅家」の遺構の面影を残すところはほとんど消え去ってしまったと考えられているようです。
この「はりま風土記紀行」で7回に分けて播磨国の「駅家」を取り上げてきました。何分、最大1370年も前(645年の大化の改新以後)のことのため、文書資料は限られていますし、発掘現場は工場化・市街化されている部分も多く、遺跡そのものが現時点では消滅してしまったと考えざるを得ない「駅家」もありました。
その中でも兵庫県立考古博物館をはじめ各市町の地道な調査のお陰で、おおまかにそれぞれの地点をおさえることができ、残りは、姫路市の「草上駅家」と、たつの市の「小犬丸遺跡」所謂「布勢駅家」となりました。これら9つの「駅家」を繋いでいけば、古代山陽道・播磨古道がおぼろげながら見えてくるような気がします。
古の播磨を訪ねて~明石市編 その4
邑美駅家(おうみのうまや)
今回は、風薫る5月の中旬に、明石市魚住町の「長坂寺(ちょうはんじ)遺跡」を訪ねました。
第二神明道路の大久保IC上りで降りて左折し、大久保インター前の信号を右折して、道なりにどんどん進みました。
「竜が岡4丁目」の信号を左折して、県道379号線に入ってすぐ次の「北場」の信号を90度に右折して379号線を約3㎞ほど直進、その間の3つ目の点滅信号を左折し、旧山陽道に入ってすぐ左手が目的地です。
ここまではナビ無しでも案外スムーズに行くことが出来ました。
県立考古博物館によると、この地では、大正年間から古瓦が採集されていて、長年古代寺院の廃寺跡と考えられ、一般に「長坂寺遺跡」と呼ばれています。
平成22~23年にわたって調査したところ、築地塀跡が、一辺80mの方形区画の「駅家」であることがわかりました。
古代山陽道沿いで古瓦の出土ということ、そして、古代山陽道上に「駅家」の位置を当てはめていくと、丁度ここが「駅家」にふさわしい場所と考えられ、従来から言い伝えられていた廃寺跡ではなく「駅家」跡と確認したということです。
ただ、この「長坂寺遺跡」は、『延喜式』『和名類聚抄』『続日本記』等の書物に「駅家」としては一切記録されていません。早くに廃止されてしまったようです。
この辺りで「山陽道」と呼ばれている道から約10mほど北に入った木々の間に、明石市教育委員会が標柱を立てていましたが、これを見つけるまでが大変でした。道行く人に尋ねて、3人目で建立場所を確認出来ました。
それには『古代山陽道の明石の駅家と賀古の駅家の中間につくられた駅家跡と考える』と説明されていました。古代の地名の「邑美郷」にちなんで、仮称「邑美駅家」と呼ばれるようになり、これが「邑美駅家=まぼろしの駅家」と言われている所以なのです。
普通「駅家」は30里(約16㎞)ごとに置かれていましたが、播磨国の山陽道だけは、半分の距離の15里ごとに9つの「駅家」が配置されていたことが分かってきています。古代山陽道は当時の幹線道路でしたから、往来する人が多かったということでしょうね。
古の播磨を訪ねて~太子町編 その4
石海(いはみ)の里
播磨国風土記には、「土地は上の中です。石海というのは、難波の長柄(ながら)の孝徳天皇の代に、この里の中に、百足(ももたり:何でも揃う)の野があって、百枝(ももえ:稲穂の多い)の稲が育ちました。そこで阿曇連(あづみのむらじ)百足が、その稲を刈り取って天皇に献上しました。そのとき、天皇がおっしゃいました『この野を開墾して、田を作らねばならない。』そこで阿曇連太牟(たむ)を石見(いわみ:島根県西部)に派遣して、人々を集めて連れて帰り、開墾させました。そして、野を名づけて、百足といい、村を石海と名づけました。」とあります。
今回は、ゴールデンウィーク中に、太子町を訪ねました。現在、太子町福地422には、「太子町立石海(せっかい)小学校」があり、その南西には「太子町岩見構(いわみかまえ)」が、そして、揖保川に架かる王子橋を西に渡れば御津町中島に「揖保岩見神社」が鎮座しており、浜国道「室の七曲り」の東入口には「御津町岩見(いわみ)」という地区があります。
これらのことから、播磨国風土記の「石海の里」は、現在の太子町立石海小学校辺りから姫路市網干区・余部区、たつの市御津町岩見の辺りまでと考えられています。そして、その「いわみ」という地名は「出雲国いわみの里」からつけたというのです。ただ、「百足の野」の比定地は、不明のようです。播磨国風土記には、出雲のことは、沢山記載されていますので、当時から、出雲との交流は盛んに行われていたと考えられています。
以前にも触れましたが、播磨国風土記では、土地の等級を「上の上」から「下の下」まで、9段階に分け、「上の上」は0で、「上の中」が5ヶ所あります。この「石海の里」は「上の中」で、土地は揖保川の扇状地になり、温暖かつ肥沃で、本文中にもあるように、稲作りが盛んに行われ、沢山の収穫があったようです。現在の太子町や姫路市南西部、御津町はその流れを今に引き継いだ農業の盛んな地域です。
今回訪れたときも、岩見構あたりは、見渡す限り一帯に小麦畑が広がっていました。地名だけでなく、産業も古代からのものを今に伝えているように思い、改めて新しい発見をしたような気がした1日でした。
古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4
比治・川音
播磨国風土記には、「宍禾(しさは)という名がついたのは、伊和の大神が、国を作り固められた後、山川谷尾根を国の境として、国内を巡行なさったとき、矢田の村で、舌を出している大きな鹿に出会われました。そこで、大神は『矢は、鹿の舌にある』とおっしゃいました。そこで、シサハ(鹿会:シシアハ)の郡と名づけ、村の名を矢田の村と名づけました。土地の肥え具合は、中の上です。
比治という名がついたわけは、孝徳天皇の御世に、揖保の郡を分けて、宍禾の郡を作ったとき、山部の比治が、里長に任命されました。この人の名によって、比治の里といいます。
川音(かわと)の村 天日槍命がこの村にお泊りになって『川の音が大変高い』とおっしゃいました。そこで川音の村といいます。」とあります。
播磨国風土記のこの条には、少し矛盾するような記述があります。最初の部分で、伊和大神の国占めの後に「宍禾の郡」ができたことを述べ、その後、第36代孝徳天皇の御世に「揖保の郡」から分割して「宍禾の郡」ができたと記されています。この点については、一般的にはあまり問題視されてはいませんが、個人的には、どちらがどうなのか興味を抱いている箇所です。
今回は3月21日の春分の日に、宍粟市山崎町の「上比地・中比地・下比地・川戸」を訪ねました。播磨国風土記記載の「比治の里・川音の村」は今も健在でした。ここ「上比地」には、「兵庫県立国見の森公園」があり、その頂上まで標高高低差約300m、延長1100mを約18分かけて上るミニモノレールに乗りました。
途中、滔々と流れる揖保川を中心に、宍粟市山崎町の中心部分を眺めることができます。やや、春霞がかかっていましたが、展望台から眺めるとその揖保川は山崎町やたつの市あたりでは全体的に北から南へ流れていますが、山崎町御名(ごみょう)と川戸を繋ぐ戸原橋の少し南あたりから大きなS字形を描いた美しい流れになっています。
帰宅途中に、車の通らない揖保川東の川戸側の土手に立って川の流れを観察してみると、確かに播磨国風土記記載のように「高い川の音=美しいせせらぎの音」が今もしていて、穏やかな日差しを浴び、土筆狩りをして春の息吹を楽しむことができました。
古の播磨を訪ねて~明石市編 その3
瑞應寺
今回は3月上旬の土曜日の春雨の日に明石市の「瑞應寺」を訪問しました。
加古川バイパスを東へ走り、明石西で下り、右折して南へ。「山口の西」の信号を左折して、明姫幹線に入り、「明姫東二見」の信号を南に下って、道なりに東二見のまちなみを見ながら「瑞應寺」へ。
その寺院は東二見の町中にドッシリと納まっていました。この「瑞應寺」は、山号は「東海山」と言い、臨済宗妙心寺派の寺院で、地元では「大寺(おおでら)」の愛称で呼ばれて、地域の人々に親しまれているお寺です。
御住職の話では「元々、東二見全域が檀家で、村の菩提寺となっていたので、『親寺』とも呼ばれていた」そうです。
創建は加古川市の「鶴林寺」とほぼ同年代とされていますが、詳細についてははっきりせず、その後、天正元年(1573)に東二見村の菩提寺として再建されたそうです。
江戸時代には寺子屋としての役目も果たし、その関係から明治5年(1872)に開校された二見(当時は双見)小学校は、この寺院の御本堂を教室として、明治13年(1880)まで活用されていたそうです。
また、この寺院には、昭和47年(1972)2月に明石市指定となった天然記念物の「ソテツ」があります。
御住職の話によると、「雌株で、震災以前は、背の高い約5mの主幹を中心に12株の枝を広げており、その姿は、見るからに美しいものでした。しかし、震災の影響で樹勢も弱まってしまいました。」ということでした。
ここのソテツは、「瑞應寺」が天正元年に再建された頃よりあったものと推察されており、樹齢は400年を超えているようです。早く、元の勢いに戻って欲しいと願わずにはいられませんでした。
また、この辺りは、明石市都市計画課が平成18年11月に市民に広く募集を行った「わがまちあかし景観50選」にも選出されています。
この「瑞應寺」を中心として、近隣には増本邸や尾上邸の都市景観形成重要建築物が点在し、二見港にも近く、潮の香りのする東二見の落ち着いたまちなみを今に残しており、雨ながらも春を予感させる情緒ある東二見巡りでした。
古の播磨を訪ねて~上郡町編 その3
法雲寺のビャクシン
2月下旬の雨の日、上郡町を訪ねました。ここ上郡町には兵庫県指定の天然記念物「法雲寺のビャクシン」があります。国道2号線の「有年原」の信号を右折して、国道373号線に入り、千種川沿いに北へ。上郡町苔縄に入り、智頭急行智頭線の苔縄駅の向こうには、雨にけむる目指す法雲寺の甍が見えてきました。千種川に架かる金華橋を西岸へ渡ると、すぐ右手の山の中腹にその寺院はありました。
この法雲寺の山号は金華山。臨済宗相国派の禅寺で、御本尊は釈迦如来です。 この寺院は、南北朝時代の建武年間(1334-1338)に上郡の英雄赤松則村(円心)を開基とし、元(中国)の朝廷から「宝覚真空禅師」の号をいただいた「雪村友梅(せっそんゆうばい)」を開山に際して京都栂尾(とがのお)より招請して創建されたと伝えられる赤松氏の菩提寺です。
さて、今回の訪問目的のビャクシンは、赤松円心がこの法雲寺を創始したときに植えたと伝わるもので、昭和52年(1977)3月、兵庫県指定天然記念物に選定されています。寺の説明板によると、樹齢約700年・幹周9.83m・根周り14.3m・高さ35m・枝の広がりは南北22m・東西23.5mで、日本最大のビャクシンと言われているようです。雨でしたが、実際にその下に入ると当然傘は必要なく、見上げると同時に、その大きさには圧倒され、筆舌に尽くしがたいほどのものでした。長い間、風雪にさらされながらも、赤松氏の栄枯盛衰をじっと見続け、まだまだかくしゃくとしているその雄姿には、思わず手を合わさずにはいられませんでした。
自分の知りうる大木の中でも1・2を争うもので、読者の皆さんにも是非一度訪問していただきたいと思いながら、雨の中はるばる上郡まで訪ねた甲斐があったと、それこそ心洗われて帰路に着きました。
法雲寺の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~稲美町編 その3
円光寺
今回は2月上旬の冬将軍が強く張り出した日に稲美町中村14の「円光寺」を訪ねました。加古川バイパス明石西ICを降りて左折。天満大池の信号をさらに左折して県道384号線に入り、1㎞ほど進んだ「国安南」の信号まで来ると、はるか左前方にその甍が見え、次の「森安」の信号では、それとハッキリわかりました。この風土記紀行の仕事をはじめて、播磨各地の訪問のたびに思うことですが、カーナビは本当にありがたい。
諸説がありますが、この「円光寺」は、一般には聖武天皇の御世・天宝2年(743)に行基が開いたと伝えられている真言宗の古刹。当初「稲美町国安」の「天満神社」境内に建立されていたようですが、神仏分離により、現在の地に移転されたそうです。
さて、山門をくぐると、境内の右側から樹齢400年近い稲美町の天然記念物『カイヅカイブキ』が、仁王さん代わりに出迎えてくれました。この「円光寺」は平成21年5月に、本堂・山門・客殿は新築され、庫裏は修復されています。境内の庭もきれいに掃き清められ、松・イブキ・槇等の植木も丁寧に剪定されていて、落ち葉一枚ありませんでした。そういう中で、御本堂はどっしりと重量感漂うものがありました。
また、隣の墓地には、高さ1m弱の稲美町指定文化財の『五輪塔』があり、そばの稲美町教育委員会の説明板に、「地輪の右方に応仁2年(1468)の銘がある」と記されていましたが、風化が激しく、読み取ることは出きませんでした。残念!
帰りに県道から改めて寺院を眺め、山門を中心にして、左右に鳥が翼を開いたが如く伸びた瓦葺の白漆喰の白壁に囲まれた堂々たる御本堂の姿から、この村の豊かさを感じました。「円光寺」は冬枯れの田園の中で北風にも負けず、威風堂々と中村の村を守り続けている感じを受け、帰路に着きました。
古の播磨を訪ねて~相生市編 その3
万葉の岬
1月下旬に相生市の「万葉の岬」を訪問しました。浜国道をひたすら西へ西へと進み、たつの市御津町岩見を越えると「室の七曲り」として有名な屈曲した美しい海岸を左に見て、室津へ。室津港へ降りる一番高台の所で車を止めて小休止。室津の町並みや船の港への出入りの様子、そしてこのシリーズに登場した「室の明神さん」として有名な「賀茂神社」の森の右手向こうには、播磨国風土記にも記載されている三つの「唐荷島」。ノスタルジックな気分に浸った後、大浦海岸を越えて一般に「室の浦」と呼ばれている海岸線を進んで相生市へ。相生市に入ってすぐ左の山が「金ヶ崎」で、この南の先端が「万葉の岬」と呼ばれている今回の目的地です。
浜国道から「万葉の岬」まで、1キロ余りにわたって桜並木が続き、車を降りると、すぐに「西播磨 花の里 万葉の岬 つばき園・桜の回廊」という小さい看板が目に入ってきました。ここには、約40種、200本余りの椿が植樹されており、毎年3月には「つばきまつり」が開催され、潮風に揺られながらいい香りを放って咲き誇る椿を堪能することが出来るようです。今回は、まだポツポツと咲いているだけで、椿の甘い香りに酔うことはできませんでした。残念!
この「万葉の岬」の名前の由来は、『万葉集巻十二』に詠み人知らずとして出てくる金ヶ崎の潮の流れの速いことを詠んだ『室の浦の 瀬戸の崎なる 鳴島(なきしま)の 磯越す波に 濡れにけるかも(室の浦の潮流が速い海峡にある鳴島[金ヶ崎のすぐ南にある現在君島と呼ばれている島]の磯を越す波に濡れてしまったことよ)』の歌に由るようです。「つばき園」には、万葉集研究の大家、故犬飼孝先生直筆のこの歌の石碑が建立されています。
当日は、生憎雲の多い天候でしたが、このつばき園の一番高台の展望台からは、東は明石海峡、淡路島、すぐ手前には家島諸島、坊勢島の遥か向こうには鳴門海峡や四国の山々、少し西に小豆島、その右手には牛窓の島々、まさにオーシャンビューの大パノラマの世界を楽しむことができ、浜風がほほを伝い、気分爽快になりました。
次回は、桜の時期に是非ここを訪ね、潮風に舞い散る花吹雪の花回廊を歩きたいものだと思いながら帰路に着きました。
万葉の岬の地図はこちら↓
http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E4%B8%87%E8%91%89%E3%81%AE%E5%B2%AC&lon=134.46806621&lat=34.80360011&ei=utf-8&z=13&fa=as&fit=true&ac=28208
古の播磨を訪ねて~播磨町編 その3
大中遺跡
1月中旬の土曜日に播磨町の国の史跡地「大中遺跡」を訪ねました。先ず、播磨町郷土資料館を目指し、兵庫県立考古博物館の少し西の建築物がそれで、これらの建物も「大中遺跡」地内に建てられています。郷土資料館の南には別府鉄道(昭和59年=1984年廃線)のディーゼル機関車と客車が展示されていて、丁度ペンキの塗り替え中でした。郷土資料館のすぐ北の遊歩道が、かつての別府鉄道の線路跡と、学芸員さんが教えてくれました。
さて、この「大中遺跡」は、昭和37年(1962)に、当時播磨中学校3年生だった3人が発見したものです。その発見場所は、播磨町大中の「大増畑(おおぞばたけ)」と呼ばれていた畑の中だそうです。この3人は、常日頃から考古学を熱心に学んでいて、土地の古老から「大正年間に、別府鉄道施設工事をしたとき、この畑地から多くのタコツボのような物が掘り出された」ということを聞き、この畑を発掘したところ、沢山の土器片が出土し、このことが大中遺跡発見のきっかけとなったとのことです。
この大中遺跡は弥生時代後期(今から約1900年前)の代表的な遺跡で、長さ約500m、幅約180mで、広さは約70,000㎡もあるようです。今までに、全体の約20%の面積の調査が終了しており、円形・方形・長方形・五角形・六角形など73棟の竪穴住居跡が見つかっています。この調査結果から考えて、遺跡内にはおおよそ250棟もの住居が建てられていたものと推測され、大いに驚きました。
古代国家が形成されようとする日本の黎明期において、その遺跡規模や出土品から、この地は、播磨ではかなり有力なムラであったと考えられます。そして、現在は大小10棟近くの住居が復元されています。その中を覗いてみて、当時の人びとの寝食をはじめとする普段の生活はどうであったのだろうかと、またまた古代に思いを馳せ、色々と想像を巡らして、ロマンに浸っている間に、太陽は大きく西に傾いていました。
大中遺跡の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~太子町編 その3
言挙阜(ことあげおか)・鼓山(つづみやま)
播磨国風土記には、「言挙阜というわけは、神宮皇后が朝鮮半島から帰ってこられ、難波で皇后に敵対する者たちに軍兵を向けられる日、この阜で、軍兵に『この軍隊は、戦いをすると決して言挙げ(口に出す)してはならない』と訓令を出されました。そこで名づけて、言挙前(ことあげさき)といいます。
鼓山 昔、額田部連伊勢(ぬかたべのむらじいせ)と神人腹太文(みわひとはらのおほふみ)がこの地で互いに争ったとき、鼓を打ち鳴らして戦いました。そこで、名づけて鼓山といいます。」とあります。
今日は大寒。今回は、太子町を訪ねました。現在、太子町には「黒岡」という地名があります。一般的には播磨国風土記に出てくる「コトアゲ」が訛って「クロオカ」になったと考えられています。この「黒岡」地区の西北の隅には神功皇后・仲哀天皇をご祭神とする「八幡神社」が鎮まっていて、その北西約200mには「黒岡神社」が鎮座しています。また、現在、太子町「原(はら)」の県営天満山住宅のすぐ北西に「黒岡山」という小字が残っており、今は平地で住宅街になっていますが播磨国風土記の時代には、この辺りに小高い丘があって、ここから今の黒岡神社の丘陵辺りを、コトアゲオカと呼んでいたのではないかと考えられています。
次に、この「原」は播磨国風土記の「ハラノオホフミ」の名残と考えられています。現在の「原」集落の東の端には「鼓原(つづみはら)大歳神社」が鎮座しています。「原」集落の地元の方の話では、「原大池(福井大池、天満大池とも言われています)の北部を埋め立てて現在は住宅街になっているが、その辺り一帯を『鼓ケ原(つづみがはら)』と呼んでいたが、この小字名は、地元住民でも、若い人はあまり知らないだろう」ということでした。
いずれにしましても、今回の太子町探訪も、紆余曲折はあるものの、播磨国風土記の記載を今に伝えているように思い、真冬の北風吹きすさむ「原」地区の寒々とした冬枯れの田の中で、古代人も見たであろう南に連なる美しい京見山の連山を見ながら、春を待ち遠しく思いました。
(揖保の郡 大田の里)
黒岡神社の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~赤穂市編 その3
大避神社(おおさけじんじゃ)
このシリーズで、何回も触れていますように、現存している播磨国風土記には「赤穂の郡」の記載はありません。そこで、今回も播磨国風土記を離れた赤穂市散策紀行文になりました。今回は、新年1月4日に、初詣を兼ねて赤穂市坂越の「大避神社」を訪問させていただきました。
日曜日のため、初詣客で混雑しているのではないかと心配していましたが、正月三が日が過ぎ、参拝客はまばらでした。車は海岸の駐車場に止めて、参道に入りました。すぐに立派な鳥居があり、しばらく進むと、右手に「懸社 大避神社」と刻印されたこれまた圧倒されるほどの標柱が建立されていました。その先の石段を登って行くと神仏習合時代の名残の隋神門が建っており境内へ。拝殿は一階唐破風、二階千鳥破風の豪華な建造物で、その拝殿の両翼には絵馬堂が長く延びている珍しい造りで、本殿は、明和6年(1769)再建の入母屋造の建築物でした。ここの絵馬堂には、船渡御のときに使用する和船(兵庫県指定有形民俗文化財)が保存されていました。
この「大避神社」の毎年10月の第2日曜日に斎行される船祭りは、ご祭神の秦河勝(はたのかわかつ:聖徳太子の信頼が非常に厚かった人物)が、坂越に来た伝承を再現する祭りとして始まったと伝えられています。それは、大阪天満宮の天神祭り、安芸の厳島神社の管絃祭とともに、瀬戸内海三大船祭の1つとして広く知られており、平成24年3月には国の重要無形民俗文化財に指定されています。
また、ここ坂越湾に浮かぶ小島は、秦河勝が生きて着いた島であることから「生島(いきしま)」と呼ばれており、原始林に覆われた島は、神域地として崇められ、樹木を伐採することは勿論、島に上陸することすら禁止されている聖域で、国の天然記念物に指定されています。
一方、この生島を望む坂越地区の伝統的建造物群による古い町並みは、平成9年(1997)に全国都市景観大賞を受賞し、その昔、廻船業や漁業で栄えた港町の情緒あふれる町並みを今に残しています。正月早々この美しい町並みを散策して、今年も何かいいことがありそうな気がした坂越巡りでした。
大避神社の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~高砂市編 その3
ナビツマ
古の播磨を訪ねて~神河町編 その3
旧福本藩池田家陣屋庭園
古の播磨を訪ねて~市川町編 その3
岩戸神社
さて、その岩戸神社ですが、樹齢数百年という杉・桧・栢(かや)がうっそうと茂っていました。参道やその両側の玉垣は苔むしていて、お社の南半分を囲むように流れている岡部川の支流の岩戸川は、清流以外の言葉は当てはまらないような渓流で、辺り一帯はひんやりとした空気が漂っていました。本殿後ろには、高さ・幅共にそれぞれ10数メートルもあるかと思われる大きな岩が迫っており、また、本殿南西方向の岩戸川の側にも苔むした屏風のような大岩が立っています。周囲の老木と合致し、せせらぎだけが聞こえてくる神秘的で静閑そのものでした。
次に、本殿の装飾彫刻ですが、これまた素晴らしいもので、巧妙精緻な力作は、市川町の文化財に指定されています。聞くところによりますと、この彫刻師は今の丹波市氷上町の出身で、日光東照宮の彫刻の流れを汲む彫刻師のようです。
この岩戸神社にはクマガイソウやエビネその他20種類ほどの山野草を集めた花園があります。なかでも6月中旬に咲く九輪草の群落は素晴らしいもののようです。今回訪ねたときは、多くの野草の茎・葉はほとんど枯れていましたが、来年は、是非その美しい花の時期に訪れたいと思いながら、岩戸神社をあとにしました。
古の播磨を訪ねて~三木市編 その3
高野(たかの)の里・志深(しじみ)の里
播磨国風土記には「高野の里 祝田(はふだ)の社にいらっしゃる神は、玉帯志比古大稲男(たまたらしひこおほいなを)、玉帯志比売豊稲女(たまたらしひめとよいなめ)です。
志深の里 三坂にいらっしゃる神は、八戸挂須御諸命(やとかけすみもろのみこと)です。大物主葦原志許(おおものぬしあしはらしこ)の神が、国を作り固められてから、天から三坂の峰に下られました。」とあります。
今回はお彼岸の中日に三木市を訪問しました。三木市の別所町には「東這田(ひがしほうだ)・西這田」という地区があります。この地区が、播磨国風土記記載の「ハフダ」といわれています。その名残の公共物等はないものかと、色々と散策し、地元の方にも尋ねましたが、バス停と道路の信号機だけしか見つけることができませんでした。残念! 次に、三木市本町2丁目19番2号の「播州三木 大宮八幡宮」を目指しました。このお社には、摂社・末社が沢山お祀りしてありました。宮司にお聞きして、立派な拝殿の裏側に、ひっそりと「祝田社」がお祀りしてあるのが分かりました。ご祭神は播磨国風土記に出てくる「タマタラシヒコオホイナヲ・タマタラシヒメトヨイナメ」で、毎年10月5日が例祭日とお教えいただきました。
次に三木市志染町御坂(みさか)586番地の三木市立志染小学校を目指しました。祝日のため、小学校はひっそりとしていました。校舎をカメラに収めた後、「御坂神社」を訪ねました。このお社は三木市内唯一の式内社です。境内の石碑には、ご祭神として「ヤトカケスミモロノカミ」「オオモノヌシノカミ」「アシハラシコオノカミ」の三柱の神をお祀りしてあると記していますが、『御坂神社御由緒』にも記録してある通り、「オオモノヌシノカミ」と「アシハラシコオノカミ」は同一神ですので、ご祭神は播磨国風土記の記載の「ヤトカケスミモロノミコト」と「オオモノヌシアシハラシコ」の二柱の神でよいのではないかと思いました。
今回は好天に恵まれた三木市巡りとなりました。帰りに改めて田んぼを見れば、畔は真っ赤な彼岸花の盛りでした。そして、稲刈りの終わった処や今まさにコンバインの稼働中の処、たわわに実った稲穂が垂れている田も沢山残っていて、まさに、錦秋を実感した一日でした。
つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華 誓子
(美囊の郡)
古の播磨を訪ねて~姫路市編 その3
伊和の里
播磨国風土記には「船丘・波丘・琴丘・箱丘・匣(くしげ)丘・箕丘・甕(みか)丘・稲丘・冑丘・沈石(いかり)丘・藤丘・鹿丘・犬丘・日女道(ひめじ)丘の14の丘の物語。土地は中の上です。このように、伊和部(いわべ)という名がついたのは、宍禾(しさは)の郡の伊和君などの氏族がやって来て、ここに住んだため、伊和部と名づけたのです。
手苅(てがり)丘という名がついたわけは、近くの国の神がここに来て、手で草を刈り、食べ物を置くスゴモとしました。そこで手苅という名がつきました。また、ある人が言うには、『韓人(からひと)たちが初めてここに来たとき、鎌を使用することを知らなくて、素手で稲を刈りました。だから、手苅の村という』と。前述の14の丘のことは、以下、全部説明します。昔、大汝命(おおなむちのみこと)の御子・火明命(ほあかりのみこと)は、心も行いも非常に荒っぽい神でした。そのため、父神は思い悩んで、火明命を捨てて逃げようと思いました。そこで、因達(いだて)の神山まで来て、火明命を水汲みに行かせ、まだ帰ってこないうちに、すぐ船を出して逃げ去りました。このとき、火明命は、水を汲んで帰ってきて、船が出ていくのを見て、大変怒りました。波風を起こし、父神の船に追い迫りました。父神の船は、進み行くことが出来ず、遂に難破してしまいました。そういうわけで、父神の船が難破した所を船丘と名付け、波が打ち寄せたところを波丘と名付けました。琴が落ちた処は琴神丘と名付け、箱が落ちた処は箱丘、匣(くしげ)の落ちた処は匣丘、箕(み)が落ちた処は箕方丘、甕(みか)が落ちた処は甕丘、稲が落ちた処は稲牟礼(いなむれ)丘、冑が落ちた処は冑丘、沈石(いかり)の落ちた処は沈石丘、藤蔓で作った網が落ちた処は藤丘、鹿が落ちた処は鹿丘、犬が落ちた処は犬丘、蚕(ひめこ)が落ちた処は日女道丘と名付けました。」とあります。
台風12号が四国・九州に大雨を降らし、台風11号が本土接近を狙っている8月上旬に、姫路市新在家の「八丈岩山」に登りました。この「八丈岩山」は播磨国風土記に出てくる「因達の神山」の遺称地と一般的には考えられています。姫路市新在家西の登山道から登りましたが、頂上にある掲示板で、沢山の登山道があることが分かりました。当日は、やや曇空でしたが、心地よい風が吹いて、セミ時雨に小鳥のさえずりを堪能しながら頂上を目指しました。登山道は「城乾中学校校区地域夢プラン実行委員会」の皆さんのお蔭で、よく整備されており、195mを一気に登ることが出来ました。頂上には「八丈岩山」の名前の由来になった「八畳岩」というチャートでできた平らな岩がありました。ここからは、姫路市街が一望のもとに納まり、東方遠くには明石大橋が、そして、上島・倉掛島といった小さな島々、西には小豆島を見ることが出来、絶好の展望所となっています。
現在、姫路市今宿の蛤山の麓に鎮座しています式内社「高岳神社」は、高岳の神がこの「八丈岩山」の上に童子となって現れたことから、この山に神社を建立したのが始まりで、後に、現在の場所に移設されたようです。頂上の「八畳岩」のすぐ北には、その名残の小さな祠(ほこら)がお祀りしてあります。
さて、播磨国風土記のこの条は、火明命を置き去りにして船を出してしまった父・大汝命に対して、大いに怒った火明命が、波風をおこして父の船を沈めてしまうという巨神の父と子の間で壮絶な闘いが行われたことを記しています。そのため積み荷が流れ出し、それぞれ小島に漂着しました。その小島が今、姫路市街地に点在する小さな丘であり、この丘の名前が、流れ着いた品物の名に由来するといわれています。
これらの丘の名前については諸説がありますが、一般的には「船丘=景福寺山 琴神丘=薬師山 匣丘=船越山またはビングシ山 箕方丘=秩父山 甕丘=神子岡 稲牟礼丘=稲岡山 冑丘=冑山 日女道丘=姫山」が比定地とされています。波丘・箱丘・沈石丘・藤丘・鹿丘・犬丘については、現在地不明のようです。
この条の姫路の14の丘の物語は、姫路にある沢山の姿の良い丘をめぐって、古代の播磨人が豊かな想像を膨らませた壮大なスケールの姫路の国造り物語と言えると思います。
〔餝磨(しかま)の郡 伊和の里〕
古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その3
雲箇(うるか)の里
播磨国風土記には「伊和大神の妻の許乃波奈佐久夜比命(このはなさくやひめのみこと)は、その姿の麗しい方でした。そこでウルカといいます。
波加の村 神々が国占めをなさったとき、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が先にここにやってきて、伊和大神は後で来ました。そこで、大神は大変不思議に思って、『はからずも先に来たのだなあ』とおっしゃいました。そこで、ハカの村といいます。ここにやって来た者は、手足を洗わないと、必ず雨が降ります。その山に、檜・杉・檀(まゆみ)ツヅラ・ワサビ等が生えています。狼・熊が棲んでいます。」とあります。
ここの条に記載されている「ハカの村」は現在の「波賀町」のことです。また、伊和大神の奥さんがいかに美しかったかがよく分かります。その「ウルワシサ」から「ウルカ」という里名がついたというのです。いいお話です。現在、宍粟市一宮町には、閏賀(ウルカ)という地名が今も残っています。そして、そこには、その美しい「コノハナサクヤヒメノミコト」をお祀りしてある「川崎稲荷神社」が高畑山の麓に鎮座しています。当日は大谷宮司から色々とお話を聞くことができました。川崎稲荷神社という神社名がついたのは、明治になってからということでした。また、この「ウルカ」という地名を使ったものとしては「うるか公民館」、揖保川に架る「うるか橋」等があるということでした。
それから、この播磨国風土記の宍禾の郡にのみ、狼・熊の記述が4ケ所あります。日本狼は明治の初めに絶滅しましたが、宮司の話では月の輪熊は今もこのお社の裏山には生息しているということでした。
そして、この宍粟市のあちらこちらに「官兵衛飛躍の地・宍粟市」の幟があがっていました。これからも、播磨国風土記と官兵衛によってこの播磨の地を全国に発信し続けていければ、と思いました。
宮司のお話を聞いている間、キジやウグイスがずーっと鳴いており、緑色濃き山々に、揖保川の清流。山紫水明とはこのことと思いました。このウルカの里は「豊かな緑 豊かな水」であふれ、人々は農作物を育て、狩りをし、機を織って、きっとウルオイに満ちた豊かな暮らしをしていたのではないかと思いました。
〔宍禾の郡〕
川崎稲荷神社の地図はこちら↓
http://r500m.com/spot/138080480962522310022/
古の播磨を訪ねて~西脇市編 その3
黒田の里
播磨国風土記には「土が黒いので里の名としました。
袁布(をふ)山というのは、昔、宗形(むなかた)の大神の奥津島比売命(おきつしまひめのみこと:福岡県宗像郡の宗像神社に鎮座する三女神の中の一神)が、伊和大神の子を身籠って、この山にやって来ておっしゃいました。『私が子を産むときになったので、をふ(やりとげます)』、そこでヲフ山といいます。 支閇(きへ)というのは、宗形の大神が『私が子を産む月が尽ぬ(きへぬ:やってきた)』とおっしゃいました。そこで、キヘ丘といいます。」とあります。
今回は梅雨のさ中に西脇市黒田庄町を訪ねました。今までもそうですが、今回も地元の方々に色々とお教えいただきました。感謝・感謝です。先ず「オフ山」ですが、この山は、現在黒田庄町黒田の小字ワカオイ(エ)ノ谷の南西の方向にある小高い山で、「前山(マエヤマ)」と呼ばれている山が比定地とされているようです。次に、「支閇丘」は、黒田庄町田高(タコウ)と丹波市山南町井原との境にある「イタリ山」がそれと考えられているようです。ただ、少し淋しかったことは、「ヲフ・キヘ」という播磨国風土記に記載されている名称が、そのままではどこにも、何にも残っていなかったことです。残念!!
途中で黒田庄町岡372-2に鎮座しています式内社「兵主神社」を訪ねました。地元では「ひょうすさん」と呼ばれて、氏子の皆さんに親しまれています。このお社は羽柴秀吉が三木城の別所長治攻略の際、軍師黒田官兵衛が戦勝祈願に訪れたもので、その時の奉納金で改築された拝殿は、茅葺入母屋造の長床式で非常にどっしりとしていて、まさに重層観あふれたものです。現在は兵庫県の重要文化財に指定されています。
ご案内いただいた皆さんもそうでしたが、西脇市をあげて「軍師官兵衛」には非常に力を入れておられ、街中をはじめ、田植えをしている横にも「官兵衛の里・西脇市」と書いてある幟があげてあり、「黒田官兵衛生誕地」の石碑も建立されていました。また、地元に古くから伝わる「荘厳寺本黒田家略系図」には、官兵衛は8代城主・重隆の次男としてこの地で誕生したことが記してあるそうです。通説とは異なる話が、この黒田庄黒田には残っていますが、どちらが正しいとかというのではなく、「播磨国風土記」同様に「黒田官兵衛」によってこの播磨を全国に発信できればと思いました。
〔託賀(たか)の郡 黒田の里〕
兵主神社の地図はこちら↓
http://www.its-mo.com/map/top_z/126078615_485988176_16//...,,,
古の播磨を訪ねて~加東市編 その3
小目野(をめの)
播磨国風土記には、「応神天皇が国内を巡行なさったとき、この野に宿をおとりになり、四方をご覧になって、おっしゃいました。『あそこに見えるのは、海か川か』と。お供の人が『これは霧です』と答えました。そのとき天皇は、『大雑把な土地の様子は見えるけれども、小目はない(細部はよく見えない)なあ』とおっしゃいました。そこで、小目野という名がつきました。また、この野にちなんだ歌をお詠みなりました。
うつくしき(かわいらしい) 小目の笹葉に あられ降り
霜降るとも な枯れそね(枯れるなよ) 小目の笹葉
このとき、お供の人が井戸を掘りました。そこで、ササの御井といいます。」とあります。
今回は、梅雨の雲が低く垂れこめていた6月の初めに、加東市野村を訪ねました。この野村地区の南部の加古川沿いには、播磨国風土記の「小目野」の比定地とされている「小部野(おべの)」という地区があります。この「小部野」は、播磨国風土記の「オメノ」が「オベノ」と訛ったものと考えられています。辺りは、静かな田園地帯で、当日は丁度田植えの準備の真っ最中でした。
現在この野村地区は、北播磨第一の大社と言われている式内社「佐保神社」の氏子になります。このお社の御本殿は、銅板葺三間社流造正面千鳥破風で、その手前の幣殿・拝殿・瑞神門にはそれぞれ意匠を凝らした彫刻が施されています。中世においては、源頼朝の妻・北条政子の庇護厚く、政子によって建立された西の内鳥居が残っているところが、村名になりました。現在の「鳥居地区」がそれです。そもそも、社町という町名は、この「佐保神社」の門前町として発展してきたことに由来すると一般的には言われています。その氏子は旧社町・旧滝野町・旧小野市の25ケ村からなりたっており、氏子の村数では、県下でも一・二位になるのではないかと思われ、その中の一つに、風土記の時代から連綿と続いている「小部野」があるのです。
空模様があやしくなり始めたので帰路につきましたが、国道372号線を走りながら見る代掻きの済んだ田園地帯は、満々と水をたたえたため池のようでした。秋には、たわわに実った稲穂が頭を垂れている様子を思い描きながら車を走らせました。
佐保神社の地図はこちら↓
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps...
(賀毛の郡 穂積の里)
古の播磨を訪ねて~上郡町編 その2
高田駅家(たかたのうまや)
今回は春分の日に、上郡町神明寺(じんみょうじ)の高田駅家跡を訪ねました。上郡町も前回の赤穂市同様に播磨国風土記には記載がありませんので、風土記を少し離れた紀行文になります。
古代山陽道は、7世紀末から8世紀初めの律令国家制度確立期に駅家制が整えられ、9世紀頃には衰退傾向で、10世紀あたりまでは機能していたと考えられています。30里(現在の約16㎞)間隔で駅家が置かれ、大路の駅家には通常駅馬が20疋常備され、外国からの賓客等に備えて瓦葺の立派な宿泊施設が整備されていたようです。
高田駅家は「延喜式」巻二十八兵部省諸国駅伝馬の条に、山陽道の播磨国九駅の一つとして、東の布勢(ふせ)駅家と西の野磨(やま)駅家の間に記載されています。現在、この高田駅家跡は、上郡町神明寺79の「福峯山願栄寺」付近ではないかと考えられています。土地の古老に聞きますと、「この辺りは古代瓦が出土しており、小字として『前田(まえだ)』という地名も残っている。この『前田』は、『駅田(まきだ)』がなまったもの。」ということでした。
当日は、一瞬通り雨やアラレが降ったりと変な天気でしたが、田の畔には土筆が芽を出しはじめ、晴れ間にはあちらこちらでヒバリが空高くさえずり、久しぶりに牧歌的な雰囲気に浸ることができ、心癒された上郡探訪でした。
願栄寺の地図はこちら↓http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps...
古の播磨を訪ねて~稲美町編 その2
古の播磨を訪ねて~加東市編 その2
穂積の里
播磨国風土記には、「元の名は塩野です。塩野という名がついたのは、塩分のある泉が、この村にでます。そこで塩野といいました。今、穂積という名がついているのは、穂積臣(ほづみのおみ)らの一族が、この村に住んでいます。そこで、穂積となづけました。」とあります。
1月13日(月)の成人の日に加東市を訪ねました。現在、中国自動車道の滝野インターから西側の地域で、北と西を加古川で、南を千鳥川で囲まれた一帯が加東市穂積です。当日は古代名の残っている穂積地区集落センターを目指しましたが、新年恒例の地区集会を開催していました。穂積一帯はやや開けかけた静かな農村という感じでした。続いていかにも鎮守の森という感じの氏神様「穂積八幡神社」にお参りをしましたが、「穂積」という風土記に記載されている古名は、この二つしか発見できませんでした。しかし、穂積氏がこの地を治めたということですが、「稲穂」を積み上げるということで、田園地帯を見ながら、古代においては、きっと稲穂がいっぱい垂れた豊かな地であったであろうと、思いを馳せました。
播磨国風土記に元々「塩野」と呼ばれていたとあるように、この「穂積」からはかなり東の方の、加東市下久米には「塩ツボ」と呼ばれている塩分を含んだ「鹿野冷泉」がありました。囲いの中を覗くと、ところどころ落ち葉のある澄んだ水の中を、時々泡が「ポコポコ」上がっていました。地元のお年寄りの話によりますと、病気の時にはこの冷泉を汲んで帰って、お風呂に使ったりしたそうです。
せっかく加東市まで来たので、社町畑609の国宝の「朝光寺」に参拝しました。「朝光寺」に近づくにしたがって、あちらこちらで、「時速30㎞厳守」と書いた看板を持った人を何人も見かけました。車はほとんど走っていませんでしたが、思わずメーターを見、30㎞まで落としました。寒風吹きすさむ中でのことでしたので、ボランティア?の皆さんに頭の下がる思いがしました。
境内には祝日にもかかわらず誰もいず、山門の仁王さんに睨まれたせいもあってか、ピリッとした空気が張りつめているような感じを受けました。国宝の本堂は本瓦葺きで、流石堂々たるもので、麓の「つくばねの滝」も落差6mですが、なかなか迫力があり、有意義な加東市巡りができました。
(賀毛の郡 穂積の里)
朝光寺の地図はこちら http://www.kita-harima.jp/modules/xdirectory/singlelink.php?lid=171
古の播磨を訪ねて~福崎町編 その2
奈具佐山(なぐさやま)
播磨国風土記には、「奈具佐山 檜が生えています。地名の由来はわかりません。」とだけ記載してあります。福崎町田口には「七種(なぐさ)の滝」で有名な「七種山」があり、この山が「奈具佐山」に比定されています。
今回は1月5日のまだお屠蘇気分も抜けない日曜日に福崎町を訪ねました。風土記には、上記のように簡単に記述してあります。それは別として、先ずこの「ナグサ」という古代名が今に残っている場所の確認です。播但自動車道の福崎北ランプで下りて、福崎小学校の南に出ました。小学校の西には、七種川が流れており、そこに掛かる橋は「七種橋」と呼ばれています。この二つの発見で先ず嬉しくなりました。この橋の東詰を右折して播但線に突き当たる少し手前の所では、幸いにもこの「七種」を使ったハイツも発見しました。その後、福崎駅の南から県道406号線を走って高岡小学校の横を通り、旧金剛城寺(作門寺)の山門も通過し、狭く険しく急峻な山道を七種川沿いにゆっくり車を走らせて、「七種神社」の鳥居前で車を降りました。ここからは歩きで「七種の滝」を目指しました。鳥居前で一礼して太鼓橋を渡ると、すぐ「虹ケ滝」が見え、その後、かなり険しく、その上、落ち葉が積もっているところを登って行くので、何度も足を取られそうになりましたが、何とか「七種の滝」に辿り着くことができました。
すぐそばの「七種神社」の境内から見る瀑布は、晴天続きで水量が少ないため、落差72mの岸壁を落下する豪快な迫力には、やや欠けるものでした。しかし、それがかえって、いかにも、神様がおわしますような感じを受け、なんとなくありがたい気持ちになりました。この「七種神社」の側を通り過ぎて、「七種山」の頂上を目指しましたが、山道を歩くというより、登山、いやロッククライミングというような険しい道でしたので、やむなく断念し、頂上を極めることなく下山しました。次回に再度挑戦します。
帰宅途中に、福崎町田口236番地の新西国第30番霊場、播磨西国第12番霊場・札所の高野山真言宗七種山「金剛城寺」に立ち寄りました。立派な仁王門・本堂・護摩堂その他、大伽藍整然とした浄刹でした。このような田舎(失礼します)でのこんな立派な名刹の発見で、またまた心洗われて、帰路に着きました。
(神前の郡 高岡の里)
金剛城寺の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~市川町編 その2
波自賀(はじか)の村
このシリーズ第5回目の神河町編「堲岡(はにおか)の里」のときに、大汝命(おおなむちのみこと)と小比古尼命(すくなひこねのみこと)の我慢比べの話を取り上げました。その播磨国風土記には「大汝命が大便をなさったとき、笹がその便をハジキ上げて、大汝命の着物につきました。そこで、波自賀の村という名が付きました。」とあります。
今回は平成25年11月下旬のまさに秋晴れの日に、市川町出身・30歳高校理科・現役陸上部顧問の教師を道先案内人として、市川町を訪ねました。先ず、風土記に記載されている「ハジカの村」を探しました。先達のお蔭で、市川町のコミュニティバス停の「初鹿野(はしかの)」をすぐに見つけることができました。近くの民家何軒かに尋ねてみますと、皆さんがおっしゃるには「このあたりは、市川町屋形で小字を『はしかの』と言います。」とのことでしたし、その名前が播磨国風土記に由来していることもご存知でした。「初鹿野山」は「初鹿野」地域の東側にそびえている山で、市川西側の「市川町澤」地区から見ますと紅葉した三角形の美しい山でした。
その後、県道34号線を岡部川沿いに車を走らせて、市川町上牛尾2038の「笠形神社」を目指しました。今まで何回も参拝に上ったという若い先達は軽やかな足取りでしたが、私は勿論右手に杖をついての上り下りになりました。麓の第一鳥居を過ぎた後、すぐに、杉の木を登る「リス」を発見しました。自然界の「リス」を見た喜びもつかの間、進むにつれて心臓がおどりだしましたが、50分かけて「笠形神社」に着きました。
本殿の右前方(中宮の正面)の、高さ50m、根回り9,5mの「御神木・杉」に圧倒されました。いかにも神様が宿っていらっしゃるような、えも言われぬ巨木でした。ところで、現在平成の大修理が行われている姫路城ですが、昭和の大修理の時に、その当時のこのお社の「御神木であった檜」を「姫路城西の心柱の上部」に使用したことを御存じの方も多いと思います。そのあとには、2世の檜が植えられていて、根回り直径30㎝ぐらいにまで成長していました。「はやく大きくなれ檜!」と祈ってお社をあとにしました。
(神前の郡 堲岡の里)
笠形神社の地図はこちら!
古の播磨を訪ねて~多可町編 その2
託賀(たか)の郡・賀眉(かみ)の里・大海(おおみ)
播磨国風土記には「昔、巨人(おおひと)がいて、頭がいつも天につかえるため身をかがめて歩いていました。南の海から北の海に行き、東から国の中を巡行したとき、この土地に来ていいました。『他の土地は天が低いので、いつも身をかがめ伏して歩いていた。この土地は天が高いので、体を伸ばして歩ける。高いなあ。』そこで、託賀の郡といいます。巨人の足が踏んだ跡は、沢山の沼となっています。
賀眉の里 この里は加古川の川上にあるので、賀美という名となりました。
大海という名がついたわけは、昔、明石の郡大海の里の人がやって来て、この山の麓に住んでいました。そこで、大海山といいます。松が生えています。」とあります。
姫路市網干区の魚吹(うすき)八幡神社秋祭り本宮の10月22日に、後ろ髪を引かれながらも、午前中に何とかしたいと思い、早朝より多可町の加美(かみ)区を訪ねました。このシリーズ10回目に取り上げました加美区的場の「播磨国二宮荒田神社」の横を通って国道427号線に出ました。国道の左右には美しいコスモス畑が広がる中、加美区箸荷(はせがい)を目指しました。地元の方3人に、別々に「おおみ山」について尋ねましたら、その3人の方が一様に「おおみ山は分からないが、おおみ坂はありますよ。」とおっしゃって、その坂を教えてくださいました。国道427号線から南を見て、山の稜線に立つ鉄塔の右側の杉・檜林の中にある林道がそれだということでした。ここが、一応播磨国風土記に記載されている「大海山」に比定されているようです(写真参照)
途中、「天たかく 元気ひろがる 美しいまち 多可」という看板を目にしました。そこで、改めて周りの山々を眺めて見ますと、明らかに高い山々が連なっていました。はるか北の方の千ケ峰と思われる山の頂は雲に覆われていました。「山が高い=天が高い」となり、これが、まさに「タカの郡」という名前がついた所以であろうかな、と思うと同時に、巨人の元気溌剌のびのびと動き回っている様子を想像し、古代に思いを馳せながら帰路につきました。
(託賀の郡・賀眉の里)
古の播磨を訪ねて~三木市編 その2
播磨国風土記には「昔、履中天皇が国の境を定められたとき、志深の里の許曽(こそ:古代朝鮮語で尊敬の意味)の社にやってこられて、『この土地は水流(みながれ)が大変美しいなあ』とおっしゃいました。そこで、ミナギの郡という名がつきました。」とあり、続いて、「履中天皇が、ここの井戸のそばで食事をなさったとき、シジミ貝が弁当の箱のふちに遊び上がりました。そのとき、天皇が『この貝は、阿波の国の和那散(わなさ:徳島県海部郡海陽町)で私が食べた貝だなあ』とおっしゃいました。そこで、シジミの里と名づけました。」とあります。
今回は、台風27号・28号がはるか南海上で日本襲撃を狙っている10月の中旬に三木市界隈を訪ねました。現在、三木市の北部から中部にかけて「美囊(みの)川」が流れており、三木市岩宮で「志染川」が南東から流れ込んできています。そして、この「美囊川」は三木市別所町正法寺で大河印南川(現在の加古川)に合流していきます。
「美囊川」沿いで、風土記に記載されている「ミナギ」という地名を今に伝えるものとしては、三木市吉川町みなぎ台の「三木市立みなぎ台小学校」があります。この小学校は平成11年4月に開校した三木市内で一番新しい小学校です。
しかし、この小学校も最盛期には600名近くの児童が在籍していたようですが、現在は各学年1クラス、全校児童数120余名で、将来的には近隣の小学校と統廃合されるかも、ということでした。ここにも、由緒ある地名のついた小学校がなくなるのではないかという寂しい話がありました。
一方、「志染川」沿いには広大な志染町に「三木市立志染小学校・志染中学校、神戸電鉄粟生(あお)線の志染駅」等があり、古代からの地名を今に伝えています。
三木市内には、「山田錦日本一の生産地」というような看板があちらこちらにありました。農家の人に聞きますと、吉川町の「山田錦」は稲の穂先まで、150㎝にも成長するようです。また、10丁もの酒米を作っている農家もあるということでした。それに、酒米の看板だけでなく「日本一美しいまち三木をめざそう」という看板もありました。そこに、「山田錦の全国一」に加えて、三木市の皆さんの「美しいまち=美しいこころ=こころやさしい人」の集団、全国一をめざそう!!という強い心意気を感じました。
さて、播磨国風土記本文ではこの「志深の里」の条の後半部に、このシリーズ8回目に取り上げましたかの有名な「志深の石室」のヲケ(23代顕宗天皇)・オケ(24代仁賢天皇)の両天皇の話が出てきます。 (美囊の郡 志深の里)
志染中学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加西市編 その2
播磨国風土記には「賀毛(かも)と名づけたわけは、応神天皇の時代、つがいの鴨が巣を作って卵を産みました。そこで賀毛の郡といいます。
上鴨の里 土地は中の上です。
下鴨の里 土地は中の中です。応神天皇が国内の様子をご覧になるため巡行なさったとき、この鴨が飛び立って、修布の井戸の木にとまりました。このとき天皇が『何の鳥か』と尋ねられました。お供の人で当麻品遅部君前玉(たぎまのほむぢべのきみさきたま)が『川に棲んでいる鴨です』とお答え申し上げました。この鴨を、天皇の命令で、弓で射させられたとき、一本の矢を放って、二羽の鳥に当たりました。鳥が矢をつけたまま山の峰を越えた所は、鴨坂と名づけ、落ちて倒れた所は、鴨谷と名づけ、鴨の吸い物を煮た所を、煮坂と名づけました。
修布の里 土地は中の中です。この村に井戸がありました。一人の女が水を汲んでいて、そのまま井戸にスイ込まれてしまいました。そこで、スフという名がつきました。」とあります。
10月に入り、あちらこちらで祭りの笛や太鼓の稽古が盛んになったある日、加西市を訪ねました。この鴨の里に登場してくる地名で、「鴨谷」は現在の加西市鴨谷に、そして「鴨坂」はその鴨谷から北条町横尾へ越える「古坂(ふるさか)峠」と比定されています。「煮坂」については不明のようです。
次に「修布の里」は加西市吸谷町(すいだにちょう)と考えられています。風土記に記載されている「修布の井戸」は、今も加西市吸谷町の民家に残っている井戸のようです。御当主の話によりますと、その井戸は現在も使われていて、しかも三軒の家が、この井戸からポンプで水を汲み上げて、使用しているとのことです。古代からずーっと利用されている井戸が、水脈が変わることもなく今に残っているということで、過去のそのときどきに生きたそこの人びとが、生活の中で、何よりも「水」を大切にしてきたかということが分かります。その井戸が今に伝わるということ自体、神がかり的なことと思われ、それこそ何か清い水で洗われたような非常に清々しい気持ちになりました。
なお、加西市は来年早々に、ここにこの「修布の井戸」に関する説明版を設置するようです。
(賀毛の郡 上鴨・下鴨の里)
古の播磨を訪ねて~佐用町 編 その2
吉川(えかわ)
播磨国風土記には
「元の名前は玉落川です。伊和大神が身に着けておられた玉が、この川に落ちました。そこで玉落川といいます。
今、吉川と言いますのは、稲狭部大吉川(いなさべのおほえかわ)がこの村に住んでいましたので、吉川といいます。
その山に黄蓮(カクマグサ)という薬草が生えています。」とあります。
9月下旬の素晴らしい秋晴れの日に佐用町の「江川」へ行っきました。
ここには、中国山地に源を持ち、佐用町の地元で「願應寺」と呼ばれている所で佐用川に合流する「江川川」が流れています。
この「江川」という名前のもととなった「イナサベノオホエカワ」という人物は、出雲国出身で製鉄業に従事していたのではないかといわれています。
現在の島根県出雲市の出雲大社の西に、旧暦の10月に日本国中から八百万の神様がお集まりになるというそれはそれは美しい砂浜があり、そこを「稲佐(イナサ)の浜」と呼んでいることと関係があるようです。
次に、佐用町大畠(おおばたけ)133には、「江川神社」が鎮座しています。この神社の本殿は、室町時代中期の文案4年(1447)の創建で、佐用町内最古の建築物です。
また、町内唯一の県指定の重要文化財建築物でもあります。
本殿は、屋根は全面、側面も部分的に仮屋で覆われて雨風をしのいでいますので、本殿の全体像をはっきり見極めることはできませんでしたが、組み物等、かなり細部にわたって意匠を凝らしたものでした。
また、佐用町豊福278番地には「佐用町立江川小学校」があり、前述の「江川川」・「江川神社」同様に古代からの地名を今に伝えています。
筆者が訪ねたときは残暑厳しき折でしたが、炎天下の運動場でマーチングバンドの稽古を、児童・先生一体となって行っていました。
「運動会で披露するのだろうなあ」と思いながらときの経つのも忘れて、しばし見入ってしまいました。
最後の「カクマグサ」という植物ですが、現在「オウレン」と呼んでいる漢方薬の古名で、福井県や京都府、兵庫県では栽培しているようです。
そして、この名前が播磨国風土記にはじめて見えることから、播磨地方でも古代から栽培されていたのではないかといわれています。
[讃容の郡 讃容の里]
江川小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~神河町 編 その2
粟鹿川内(あはがかふち)・大川内(おおかふち)・湯川
播磨国風土記には
「川が但馬の阿相(あさご)郡の粟鹿山から流れてきています。
そこで、粟鹿川内といいます。ニレが生えています。
大川によって、大川内という名としました。檜・杉が生えています。また、生活や風習の違う北国の蝦夷(えみし)の人たちが三十人ほど暮らしています。
昔、湯がこの川に出ていましたので、湯川といいます。檜・杉・ツヅラが生えています。
また、蝦夷の人たち三十人ほどが暮らしています。」とあります。
この条に関しては、古来色々と物議を醸している箇所です。風土記本文のように、確かに但馬の国(現在の朝来市)には「粟鹿山(あわがやま)」が存在し、頂上の電波塔が少し気になりますがその山容の美しさから「ふるさと兵庫50山」にも選ばれています。
この山の麓には延喜式名神大社・但馬一宮の「粟鹿神社」が鎮座していますことなどから、古代の但馬の人は意味ある山と考えていたようです。
ところで、生野峠より北の川は大河丸山川に支流として流れ込みますが、生野峠を越えて、市川に流れ込むことは物理的に不可能なことです。
また、「粟鹿川内」が現在のどこに比定されるのかも明確ではありません。
しかし、但馬の人々が「粟鹿山」に畏敬の念を抱いていたように、現在の神河町粟賀町(あわがまち)辺りに住んでいた古代北播磨の人々も但馬の「粟鹿山」に対して、信仰心のようなものを持っていて、その山から「粟鹿川(今の越知川を含むその支流のことか)」が流れ出し、風土記のその後に登場してくる大川(現在の市川)に流れ込んでいると思っていたのではないかと考えられています。
また、風土記の「大川内」は、まさに「大河内」で、「湯川」は、寺前の町を通って市川に合流している「小田原川」と比定されています。
現在「小田原川」の上流には峰山温泉がありますが、古代にあっても温泉が湧き出ていたのでしょうか。
台風18号が通り過ぎた後、上記の場所を訪ねました。
「粟賀小学校」では、学校南の村中の道脇に車を停めさせていただきました。
稲刈りの済んだ田んぼの畦には、まだ蕾のマンジュシャゲが沢山生い茂っており、空は澄み切っていて、山間から聞こえてくる小鳥のさえずりに耳を傾けながら小学校に向いました。ところが、小学校に近づくに従って、何か様子がおかしいのに気がつきました。
校舎も校庭も全く子どもの気配がないのです。
門は封鎖され「立ち入り禁止」の看板が貼り付けてありました。
そばを通りかかった老婆にお聞きしますと「この(2013年)4月から『大山小学校』と合併し、『神河町立神崎小学校』となって、この南西200mほどの所に移転したよ。」ということでした。
ここにも、少子化・行革の波は押し寄せ、140年も続いた由緒ある名前の学校がまた一つ消えたかと思うと、急に寂しい気持ちになってしまいました。
[神前の郡]
古の播磨を訪ねて~西脇市 編 その2
都麻(つま)・都太岐(つたき)
播磨国風土記には
「播磨国風土記には「播磨刀売(はりまとめ:播磨の国の神に仕える女性)と丹波刀売(たんばとめ)が、国の境を決めたとき、ハリマトメがこの村までやって来て、井戸の水を飲んで『この水味い:このみズウマい』と言いました。そこで、ツマといいます。」とあります。
ズウマ→ツマとなったものと考えられ、現在の西脇市津万(つま)から西脇市黒田庄町津万井(つまい)辺りのことと考えられています。
続いて、播磨国風土記ではこの後に「昔、讃岐日子(さぬきひこ:香川県の神)が氷上刀売(ひかみとめ:丹波国氷上郡の神に仕える女性)に求婚しました。
そのとき、ヒカミトメが『いやです。』と答えたのに対して、サヌキヒコはなおも強引に求婚しました。そこで、ヒカミトメは『どうして、私にそんなに無理やり求婚するのですか!』と怒り、建石命(たけいわしきのみこと:神前郡の神前山に鎮まります伊和大神の御子)を雇って、武器で戦いあいました。
その結果、サヌキヒコが負けて、四国へ帰って行きました。
『私は、甚だツタナキかな(力不足であったなあ)。』そこで、都太岐(つたき)といいます。」とあります。
ここも、ツタナキ→ツタキとなったものと考えられますが、比定地についてははっきりしていないようです。
後半の部分には、古代女性のたくましさ・気強さが描かれていると言われています。
あまりにもしつこい求婚に対して、強力な男神を雇ってしり退けてしまいました。
讃容郡(さよのこおり)の条の伊和大神とその妹の玉津日女命(=佐用津比売命)との国占め争いや揖保郡の出水(いづみ)の里の条の石龍比古命(いはたつひこのみこと)と妹の石龍比売命(いはたつひめのみこと)との灌漑用水争いなど、血を分けた兄妹でも凄まじい戦いがあったようです。
そして、いつも負けるのは男性(男神)の方なのです・・・・・。
[託賀(たか)の郡 都麻(つま)の里]
大津神社(津萬厄神)の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加古川市・高砂市 編 その2
大国(おほくに)の里・伊保山
播磨国風土記には
「大国と名づけたわけは、農家が沢山あったからです。
この里に山があり、名を伊保山といいます。仲哀天皇(第14代)が亡くなられ、ご遺骸を神としておまつりするようになって、お后の神功皇后が石作連大来(いしつくりのむらじおほく)を連れてきて、陵墓を作るため、讃岐の国の羽若(はわか)の石を求めさせられました。
そこから播磨の国へお帰りになって、まだご葬儀の場所が定まらないとき、オホクが、その場所を見顕(みあらは:発見)しました。
そこで、美保(みほ)山といいます。
山の西に原野があり、その中に池がありますので、名を池の原といいます。」とあります。
この「大国」とは現在の加古川市西神吉町大国辺りから高砂市伊保辺りまでの範囲と比定されています。
播磨国風土記の印南(いなみ)の郡の最初に出てくるのがこの「大国の里」ですが、普通、この「大国」という里名にも、何らかの驚きを覚えてしまいます。
播磨国風土記には「土地の肥え具合は中の中・農家が沢山あるから大国」とだけ記されています。
加古川の扇状地が広がる河口に近い西側一帯には田園地帯が広がっていたものと思われます。
そして、沢山の農家があって、農作業に従事する人も多くいて、人びとは広い土地で、よい生活を送っていたものと思われ、領域的にも人口的にも産業的にも「大国」であったと考えられています。
次に「伊保山」ですが、上記風土記の本文からしますと、もともとは「ミホヤマ」で、それが訛って「イホヤマ」になったいうことになります。
現在明姫幹線沿いに、削られたその岩肌を荒ぶる神のごとく丸出しにして鎮まっています。
「伊保山」の南側一帯には、水田やレンコン畑が広がっていて、そこの地名が「伊保・伊保崎・伊保東」等々、風土記の地名を受け継いでいる町名がその他いくつか残っています。
前述の加古川市の「大国」をはじめ、これらの町名の由来を思うと、何かホッコリとした、不思議と落ち着いた気持ちになってきます。
さて、この「大国の里」の条の「池の原」の話に続いて記載されているのが、このシリーズ3回目に登場しましたかの有名な「石の宝殿」です。
[印南の郡 大国の里]
古の播磨を訪ねて~太子町 編 その2
大田(おおた)
播磨国風土記には
「昔、呉(くれ)の村主(すぐり:村の長)が韓国(からくに)から渡来して、紀伊の国 名草(なぐさ)の郡 大田の村(和歌山市太田)にやってきました。
その後、分かれて摂津の国 三嶋の加美(上)の郡 大田の村(大阪府茨木市太田)に移り住みました。
そこからまた、播磨の国 揖保の郡 大田の村に移住してきました。
この大田という地名は、元の紀伊の国の大田をもって名としたものです」とあります。
ここでいう「呉」は、中国の三国時代の魏・蜀・呉ではなく、江南地方から朝鮮半島南部に移住していた人びとの地域があったのではないかと考えられています。
そこにいた人びとが日本へ渡って来て、最初は今の和歌山市に住んでいました。
そこから分かれた人びとが、大阪府茨木市あたりに住むようになり,そして、その人たちが、今度は兵庫県太子町の太田に住むようになった、というわけですから、都合三回も転々と居住地を変えたことになります。
しかも、全て、同じ「大田」という地名を使ってのことです。
なお、現在太子町東出(とうで)128には、太子町立太田小学校が風土記の地名を今に引き継いで存在しています。また、現在この太子町太田の北西には、太子町作用岡(風土記には佐比岡と出ています)という地名があります。
ここには太子町立龍田小学校がありますが、その西側には、「平方(ひらかた)」という小字が残っています。
この小字名も、播磨国風土記では「枚方の里」の条に現在の大阪府枚方市辺りに住んでいた漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやって来て、初めてこの村に住んだから「枚方」という地名がついたというようなことも記載されています。
日本に渡来してからこの播磨の国へ移住してくるということは、諸般の事情があったのでしょうが、この地が気候もよく、土地も豊かで、農業・鉱業等も盛んであり、交通の便も良く、その他色々な面で居住地として適していたからと考えられているようです。
古よりこの播磨は素晴らしい土地であったということですね。
[揖保の郡 大田の里]
太田小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~宍粟市 編 その2
御方(みかた)
播磨国風土記には
葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと)が天日槍命(あめのひぼこのみこと)と黒土の志爾嵩(しにだけ)に登って、それぞれ黒蔓(つづら)の三条(みかた)を、足に着けて投げました。
そのとき、葦原志許乎命のツヅラの一条(ひとかた)は但馬の気多の郡(豊岡市城崎町の南部)に落ち、もう一条は夜夫(やぶ)の郡(養父市養父町)に落ち、三つ目の一条はこの村に落ちました。
そこで、ここを三条(みかた)といいます。天日槍命のツヅラは、全て、但馬の国に落ちました。そこで、但馬の出石の土地を占拠することになりました。
ある人がいうには、伊和大神が形見(土地の占拠の標示)として、杖をこの村にお立てになりました。そこで、御形といいます。」とあります。
この場面は粒丘(いいぼおか)の国占めの争いから始まる葦原志許乎命と渡来人天日槍命との最後の一戦の場面です。
その途中の奪谷(うばいだに)の条では、土地争奪が激しいために谷の地形を変形させるほどのものであったとも記載されています。
古代における土地占め・国占めの凄さに驚いてしまいます。
また、上記の風土記本文の最後に出てきますように、葦原志許乎命はこの地を治め、去られるに当たり、その行在(あんざい:高貴な方の仮の住まい)の証に愛用の杖を形見として、その村に刺されました。
そこで、御形代・形見代ということで「御形」という名前がついたという説もあるとのことです。
さて、この「葦原志許乎命」をご祭神とする神社が、宍粟市一宮町森添に鎮まっています式内社「御形神社」です。
重厚な檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は、宍粟市で唯一国の重要文化財に指定されています。
本殿は、室町時代に創建されたもので、何回か塗り替えられているようですが、創建当時から朱塗りであったと伝わっている豪華絢爛なご社殿を拝見しますと、その昔、この地域がいかに豊かであって、葦原志許乎命と天日槍命が国占め争奪をしたことも納得がいくような気もしました。
[宍禾の郡 御方の里]
御形神社へのアクセス&ホームページはこちら
古の播磨を訪ねて~たつの市 編 その2
立野(たちの)
播磨国風土記には
「昔、土師(はにし:埴輪や古墳の作製に携わった人)の
野見宿禰(のみのすくね)が、大和から出雲の国へ通う途中、
日下部野(くさかべの)に泊まりましたが、病気になって亡くなりました。
そのとき、出雲の人がやってきて、大勢の人を野に並べ立てて、
川の小石を手から手に運んで、墓の山を作りました。
そこで立野と名づけました。
また、その墓屋(陵墓)を名づけて、出雲の墓屋といいます。」
とあります。
ここに出てくる野見宿禰は、出雲出身の相撲の元祖と言われている人物で、
この「立野」は現在の「たつの市龍野町」に比定されています。
梅雨明けの真夏の昼下がりに、たつの市の龍野公園の西にある野見宿禰神社を訪ねました。
龍野神社の北のなだらかな石段を登って行くと野見宿禰神社の灯籠の前に着きました。
東屋もあり、小休止しながら眺めたここからの龍野平野の見晴らしはなかなかのものでした。
翻って灯籠のところから急峻な石の長い階段を見上げますと、それだけで汗が噴き出しそうになりました。
その階段をそれこそ汗だくだくになりながら登り詰めますと、
そこには「野見宿禰の墓」と言われている「出雲の墓屋」がありました。
一息ついてから改めて墓屋を見てみますと、一面草木で覆われていましたが、
墓屋の周りの囲いの石は直径30㎝前後の河原の石とわかる丸い石でした。
出雲からやって来た大勢の人々が、揖保川からの人海戦術で一生懸命石を運んでいる光景が浮かんできました。
この草木の下には、囲いよりも小さい目の、人々が手から手に運んだ石が
整然と山のように敷き詰めらているのであろうと想像しながら墓屋を一周しました。
野見宿禰の墓屋の立派な石の扉には、
出雲大社の宮司「千家」家の家紋である二重亀甲剣花菱紋が刻印されており、
出雲からそれこそ有力者をはじめ、多くの人々が此の地にやって来て、野見宿禰の死を悼み、
この「出雲の墓屋」を築いたのであろうと思うと、いつの間にか暑さも忘れてしまっていました。
野見宿禰神社の地図はこちら
番外編 古の播磨を訪ねて~朝来市編
生野
今回は番外編として生野を訪ねました。
播磨国風土記には
「昔、人に害をする神様がいて、行き来する人の半分を殺していました。
それで、死野という名がつけられました。
その後、応神天皇が『これは悪い名だ』とおっしゃって、
改めて生野にしました。」
とあります。
以前、加古の郡の鴨波(あはは)の里の舟引原の条で紹介しました神様も、
通り過ぎる船の半分を沈没させていました。
昔は、怖い神様があっちこっちにいたようで、この条でも通行人の半分を殺してしまったというのです。
ここに出てくる「生野」は銀山で有名な「生野」ですから、
あるいは、この話は鉱山の鉱毒のことを説話化しているのかもしれません。
しかし、どういう理由であれ、通行人の半分が死んだということですから、ただ事ではなかったと思われます。
だから、応神天皇は「死野は良くない名前だ」とおっしゃって、
「生野」という良い名前に改めたということです。
何かホッとしますね。
ところで、この「生野」の条は、播磨国風土記の
「神前(かむさき)の郡 堲岡(はにおか)の里」に記載されていますが、
「生野」は時代が下れば、但馬国に入ってしまいます。
この風土記の時代、播磨の勢力が北へ伸びていて、但馬の南部地方も播磨国に入っていたことが分かります。
さて、話は変わりますが、明治以降、この生野と姫路の間は、
途中の町々や村々も含めて「銀の馬車道」を通して繋がっていました。
その「銀の馬車道」は、2012年にユネスコの『プロジェクト未来遺産』に登録されました。
この生野発の「銀の馬車道」を、はるか昔から長い歴史と伝統のもとで連綿と培われてきた
『播磨の遺産』として、私たち播磨人は未来へ繋いでいく使命があると思うこの頃です。
[神前の郡 堲岡の里]
生野銀山の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~姫路市 編
塩阜(塩阜神水:しおおかしんすい)
播磨国風土記には
「この丘の南に塩水の出るところがあります。
縦横それぞれ三丈位(約9m)、海から離れること三十里程(約16km)、
底に小石を敷き、周りに草が生えています。
そこは、海に通じていて満潮のときは、
深さ三寸ばかり(約9cm)になり、
牛・馬・鹿などが好んで飲みます。
そこで塩阜と名づけました。」
とあります。
現在、姫路市林田町林田には、
約3m四方を玉垣をめぐらし「塩阜神水」と刻された石の標柱が建立されている場所があり、
ここが、風土記記載の「塩阜」に比定されています。
その昔、石清水八幡宮から林田の地に八幡神を勧請
(かんじょう:神仏の霊を別の所に迎えてまつること)するとき、
小烏帽子(こえぼし:烏帽子をかぶった子供)36人がここで「禊」をしたという故事にちなみ、
今も林田町の八幡神社と式内社祝田(はふりた)神社の秋祭りの潮掻きは
この「塩阜」の神水を使って行われています。
さて、この「塩阜神水」へは、これまで何度も訪れましたが、その都度水量は違っていました。
つい最近訪ねたときは、残念でしたが干上がっていました。
暦を見れば、姫路地方は丁度大潮の干潮の時間帯でしたので、その影響を受けていたのでしょう!?
風土記記載当時の海岸線は、今よりはかなり内陸部であったと思われますが、
風土記の記述のように本当に「塩阜」が海に通じていたかどうかは別にして、
海からはるかに離れていても潮の満ち引きの影響を受けていたと考えていたこと自体、
古代人の夢・ロマン・そして、信仰心の篤さといったものを感じ取ることができますね。
[揖保の郡 林田の里]
古の播磨を訪ねて~上郡町 編
野磨駅家(やまのうまや)
今回は小雨の降る中、上郡町落地(おろち)の
古代山陽道野磨駅家遺跡を訪ねました。
古代山陽道は、奈良・平安時代には都と九州の大宰府を結ぶ重要な道で、
当時の日本で一番大切な大路
(だいろ、中路:ちゅうろ=東海道・東山道)でした。
駅家は、唐・新羅等の使節や役人に対して、馬の乗り継ぎや食料の支給、
宿泊所の提供などを目的としたものでした。
その駅家は、通常約16kmごとに設置されましたが、古代山陽道は、
国家が非常に重要視した官道でしたので、約8kmごとに設置されていました。
そのような大切な施設が、この現在の上郡町落地字飯坂・八反坪(はったんつぼ)に設置されていました。
「養老律令」(757年施行)には、その最初の行に「およそ、諸道に駅馬(やくめ)置かむことは、
大路廿疋(20ぴき)、中路十疋、小路五疋」とあり、野磨駅家には常時20頭の馬が用意されていたようです。
しかし、全国に、400ヶ所以上も設置された駅家は、そのほとんどが、開発により失われてしまい、
現在駅家跡と確定されている遺跡は、
全国でこの野磨駅家と布勢駅家(ふせのうまや:たつの市揖西町小犬丸)
の二ヶ所だけなのです。
古代山陽道は、これまでの発掘調査により、この上郡町あたりでは、県道5号線(姫路上郡線)と
ほぼ重なるルートに作られていたと考えられ、その道幅は、約10mもあったようです。
ところで、かの清少納言までも、その著書「枕草子」の中で
「むまやは、梨原。(滋賀県草津市)・・・やまのむまや、
あわれなること(しみじみと身にしみて感じられること)を
聞きおきたりしに、またあはれなることのありしかば、云々・・・(第223段)」
と書き留めていることや、
その昔主要な役目を果たした駅家の遺跡がこの播磨にだけ二ヶ所も残っていることを思うとき、
播磨人として、何か誇らしく思ってしまうのは私だけでしょうか。
野磨駅家跡の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~相生市 編
瓜生羅漢(うりゅうらかん)
現在の相生市に相当する箇所も、 前回の赤穂市同様に播磨国風土記には記述が残っていませんので、 風土記を離れた紀行文にしました。
梅雨の合い間の晴れた日に、相生市矢野町瓜生の羅漢の里を訪ねました。
駐車場で車を降りると、
鶯が今まで耳にしたこともない良い鳴き声で迎えてくれました。
前日が雨であったため、足元の悪い中での行程になりましたので、
苔むした石段に注意を払いながらゆっくり登って行きました。
切り立った大きな岩の間を抜け、
巨岩のトンネルをくぐり、急な石段を登りきると、
そこは聖地のような空間でした。
「羅漢講」と刻字された玉垣のような囲いがあり、
大きく張り出した岩窟の中には、
釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三体の像のほかに、16体の羅漢像が安置されていて、
この19体の尊者の前に立つと、自然と手が合わさってしまいました。
この瓜生羅漢の由来は、
第29代欽明天皇の時代に高句麗からの僧である恵便・恵聡の二人が石仏を彫ったとも、
弘法大師が全国行脚の途中にここを訪ねて石仏を刻んだとも、
その他諸説紛々としていてはっきりしていないようです。
しかし、そのようなこととは別に、人里からほんのわずか入ったところに、
人っ子一人もいないこんな深山幽谷を思わせる場所があったことに驚きました。
そして、平成9年7月のはじめに、規模や対象は違うものの、やはり雨上がりの翌日の足元の悪い中、
苦労して登って参拝した国東半島豊後高田市の熊野磨崖仏のことが、なぜか思い起こされ、
心洗われる思いがしたひとときでした。
羅漢の里の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~赤穂市 編
伊和津比売(いわつひめ)神社
非常に残念なことですが、播磨国風土記には赤穂の郡の全体が欠落しており、
また、諸本による逸文も存在しないため、
この郡に関しては何の手掛かりも残されていません。
そこで、今回を含め、相生市編・上郡町編の「はりま風土記紀行」では、
風土記を少し離れた歴史紀行にしたいと思います。
赤穂市といえば「討ち入り」となりますが、その「赤穂義士」と少し関係のある赤穂市内唯一の式内社である伊和津比売神社に参拝に行ってきました。
このお社は延喜式神明帳の赤穂郡の3座の筆頭に記載されている由緒ある神社です。
ご祭神は伊和津比売大神で、その昔、海上の「八丁岩」に鎮座していましたお社を、天和3年(1683)に浅野内匠頭長矩が現在地へ遷座たまわったそうです。
海に面した大鳥居を下って行くと遊歩道に出ました。そこから先も石段があり、海中に達するようでしたが、立ち入り禁止になっていましたので、残念でしたがそこで足は止めました。
当社は、古来「御崎明神」と呼ばれていて、航海安全や大漁祈願の神様として手厚い信仰を受けてきています。
また、古くから、若い男女による姫神信仰が盛んなようでした。
そして、ここ数年は縁結びのご利益のある「姫御守」が若い女性を中心に人気を集め、阪神間からわざわざ買い求めてくる人や、
「おかげさまで大願成就しました。」
とお礼参りに再来する人もいるということです。
その「姫御守」は長さ3.5cmほどの小判型で、赤い着物を着た姫を綿布でかたどって、かわいらしく微笑んでいる顔の部分は一体一体手書きだそうです。
また、ここからの眺望は抜群で、たまたま晴れた空気の澄んだ日だったためか、家島諸島・小豆島はすぐそこに、そして、明石海峡・鳴門海峡・四国までが手に取るように見ることができ、老体の私には、上記の「姫御守」のご利益は別としても、はるばる赤穂の地まで足を運んだ甲斐のある一日でした。
伊和津比売神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~市川町 編
川辺(かわのへ)の里・勢賀(せか)
播磨国風土記には
「この村は川の辺りにあります。そこで、川辺の里と名前がつきました。」
とあります。
ここに出てくる川は現在の市川のことと考えられ、また、市川町には町立川辺(かわなべ)小学校があり、この一帯が風土記記載の「川辺の里」に比定される場所と考えられています。
続いて播磨国風土記では、
「勢賀というわけは、応神天皇がこの川で狩をなさいました。
猪・鹿を沢山ここにセキ(逃げ道をふさぎ、追い)出しました。
だから、勢賀と言います。」
とあります。
この勢賀は、現在の市川町の上瀬加から下瀬加一帯のことと思われ、ここを流れる川は笠形山を源流として市川町西田中で市川と合流する岡部川のことと考えられています。
風土記を紐解いていて、いつも思うことですが、今から千数百年も前に使われていた土地名等が、紆余曲折はあるものの、連綿と受け継がれて現在に至り、上記の川辺小学校をはじめ、瀬加小学校・瀬加中学校等と学校名などにもなって今に残っていることに対して、地名歴史の偉大さを感じるとともに、ほんわかと心温まる感じがいたします。
[神前の郡 川辺の里]
川辺小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加東市 編
端鹿(はしか)の里
播磨国風土記には
「その昔、神が村々に木の種をお分けになっていましたが、この村にやって来たとき足りなくなってしまいました。
そこで、『ハシタなるかも(半端になったなあ)』とおっしゃいました。
そこで、ハシカという名がつきました。
今もその神が鎮座していらっしゃり、この村では、山の木に実がなりません。
槙・檜・杉が生えています。」
とあります。
現在の加東市立東条東小学校(加東市椅鹿谷56:はしかだに)辺り一帯の話と考えられ、地元では今も「はしかの里」と言われています。
さて、播磨国風土記のこの「端鹿の里」の条には、何とおっしゃる神様が、何の木の種を分け与えられたかは記載されていません。
しかし、神様はこの地で種が半端になったことを忘れておられませんでした。
それから千数百年後に、神様はこの地に「山田錦」という素晴らしい酒米のモミ種を蒔いてくださり、日本一の酒米所としてくださいました。
[賀毛の郡 端鹿の里]
東条東小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~播磨町・稲美町 編
大見山(おおみやま)
播磨国風土記には
「昔、任那(みまな:5~6世紀頃韓国南部にあった小さな国々の連合体)からの渡来人で、大部造(おおとものみやつこ)らの祖先である古里売(こりめ)が、この野を耕して粟を沢山撒きました。
そこで、アハハの里と名前がつきました。
また、この里に舟引原という所があります。
神前(かむさき)の村に荒々しく悪いことをする神がいて、いつも通り過ぎる舟の半分を通しませんでした。
そこで、通行する舟は、印南川(加古川)河口の大津に入り、川を上って賀意理多(かおりた)の谷から陸路舟を引いて、明石の郡の林の港に行きました。そこで、舟引原といいます。」
とあります。
後半部分の通せんぼされた船は加古川の大津(現在の加古川市米田町船頭か加古川町本町辺りか?)にとどまり、そこから加古川を遡って、カオリタの谷(加古郡稲美町天満大池の東西の谷か?)を、船を押したり、担いだり、引っ張ったり、沼を渡ったりして明石川に入り、下って今の林崎漁港辺りに至ったと思われます。
当時の船はさほど大きくはなかったとしても、大変な重労働であったことが推測できます。
現在、天満大池の西は稲美町六分一という地名で、ここの土地の古老によれば、天満神社御旅所辺り一帯を、以前「船引」と言っていたことがあるということでした。
従って、南はJR土山駅辺りから天満神社、さらにその北の湖沼地帯を含む広い範囲が風土記の「舟引原」と考えられているようです。
[賀古の郡 鴨波の里]
天満神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~太子町 編
大見山(おおみやま)
播磨国風土記には
「応神天皇が、この山の峰に登り土地の繁栄を祈って国の四方をご覧になられました。
そこで大見といいます。天皇が立たれた所に岩があります。
高さ三尺(約90cm)縦三丈(約9m)幅二丈(約6m)です。
その岩の表面に所々窪んだ跡があり、これを名づけて御沓(みくつ)また御杖(みつえ)といいます。」
とあります。
現在、この大見山は太子町と姫路市の境の標高165mの壇特山に比定されています。
その山容は小さいながらも(と言っても播磨平野の山々の中では一つの山としては一番大きいと思われますが)威風堂々としており、太子町を代表する山です。
その頂上の大きな岩には風土記に記載されているように、天皇が岩の上を沓で踏み、杖をたてたと伝えられている「御沓・御杖」と思われる窪みが沢山あります。
山の北よりの中腹で岩に腰掛け、一休みしながら太子町原の福井大池や京見山を望んで古の世界にロマンを馳せている時、低い地響きをたてながら壇特山から出てきた新幹線が颯爽と走り抜けていくのを見て、ふと現実に戻りました。
[揖保の郡 枚方の里]
檀特山の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~小野市 編
山田の里・猪養(飼)野(いかいの)
播磨国風土記には
「山田という名がついたのは、人々が山の際に住んでいましたので、里の名としました。」
また、
「猪飼(ゐかひ)という名がついたのは、仁徳天皇の御世に日向(宮崎県)の肥人(くまひと)の朝戸君(あさべのきみ)が、天照大神を祭っていらっしゃる船の上にイノシシを持参して献上しました。
そして、クマヒトはイノシシの飼育地を探し出して、その土地を頂けるよう、お願いしました。
そこで、この場所を賜り、イノシシを放し飼いにしましたので、猪飼野といいます。」
とあります。
今の小野市山田町辺りの話であり、イノシシの飼育に関して高い技術を持っていて、伊勢神宮にイノシシの毛皮等を奉納していたとされる猪飼部(いかいべ)の話のようです。
猪養(飼)野と出てくる地名は、古来、山田町草加野(そうかの:現在の大開町を含む広い範囲)に比定されています。
小野市山田町480の山田公民館に「山田の里」と刻された時計台が建立されており、そこから山裾に広がるのどかな田園風景を望んでいますと、風土記の時代にタイムスリップした気持ちになりましたが、不覚にも山田錦が脳裏をかすめてしまいました。
[賀毛の郡 山田の里]
小野市山田公民館の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~西脇市 編
鈴堀山(すずほりやま)・伊夜(いや)丘
播磨国風土記には
「応神天皇が国内巡行で此の地においでなさったとき、此の山で鈴を落とされました。
お供の者が懸命に探したけれども見つからず、ついに土まで掘って探しました。
そこで、鈴堀山と言います。」
とあります。
当時は金属溶接技術のなかった時代であり、鈴は貴重品であるうえ、天皇の持ち物であったために、お供の者たちが、それこそ必死になって探している様子が浮かんできます。
現在も西脇市堀町(ほりちょう)には鈴堀山が存在します。
また、この「堀町」という町名は、鈴堀山を起源にしたものと言われ、山の前を流れる小川を鈴堀川と言います。
続いて播磨国風土記には
「応神天皇の猟犬で、麻奈志漏(まなしろ)という名前の犬が、猪を追ってこの丘を走り登りました。
天皇がご覧になって、『射よ!』とおっしゃいました。
そこでイヤ丘という名前がつきました。
そして、このマナシロは猪と闘って死んでしまい、墓を作って葬りました。
この丘の西に犬墓があります。」
と記載されています。
現在このイヤ丘の存在はわかりませんが、鈴堀山の西麓の犬墓の跡と伝わっている場所には、犬次(いぬつぐ)神社が鎮座しています。
地元の老翁の話によりますと、このお社は、神社本庁に登録してある神社ですが、この名前の神社は全国でここだけで、他の神社と比べて次の三点の特徴があるということです。
○神社であるにもかかわらず創建当時より鳥居がない。
○神社に対して、梵鐘が奉納されている。
○お産の神様として、本殿の裏側からも参拝できる。(砂受場の存在)
いずれにしましても、犬をお祭りし、そして、犬はお産の軽い動物であることから安産の神様・子宝の神様として、小さなお社であるにもかかわらず多くの人たちに親しまれているということです。
[託賀(たか)の郡 都麻(つま)の里]
犬次神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~多可町 編
荒田(あらた)
播磨国風土記には
「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。
父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約7ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。
そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。
すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。
後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」
とあります。
播磨国風土記には、なぜ田が荒れてしまったかは記載されていません。
しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです。
現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があります。
また、隣の区の多可町加美区的場には見るからに荘厳な式内社 荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています。
したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます。
[託賀(たか)の郡 賀美(かみ)の里]
荒田神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加西市 編
玉野・根日女
播磨国風土記には
「兄のオケ(24代仁賢天皇)、弟のヲケ(23代顕宗天皇)お二人の皇子が、美囊(みなぎ)の郡志深(しじみ)の里にあった高野の宮にいらっしゃった時、国造許麻(くにのみやつここま)の娘、根日女命(ねひめのみこと)のもとに、山部少楯(やまべのをだて)を遣わして、求婚なさいました。
そこで、ネヒメはこの求婚をありがたくお受けしました。
しかし、お二人の皇子はお互いに姫を譲り合って、結婚なさらず、月日がたち、ネヒメは年老いて亡くなってしまいました。
お二人の皇子は大変悲しみ、すぐにヲダテを遣わして、
『朝日から夕日まで一日中日が当たる土地に墓を作って、姫を埋葬し、玉で墓を飾りなさい』
と命じました。
そこで、この墓を玉丘と、そしてこの村を玉野村と名づけました。」
とあります。
このお二人の皇子は、幼いころから皇位継承に絡んだ辛酸をなめていたからでしょうか、非常に仲が良く、いつもお互いに譲り合っていました。
志深の村の首長のイトミの家で歌を詠うことになった時も、また、天皇の位に就く時も互いに譲り合って、結局弟のヲケ皇子が先にしました。
ネヒメの時も双方が譲り合い、その間にネヒメは年老いて亡くなってしまいました。
この可憐な乙女は一生待たされ続けて終わった悲劇の主人公と言えます。
どんな気持ちで待ち続けたのでしょうか。
加西市を流れる万願寺川中流域右岸の玉野町辺りがこの地に比定され、墓は玉丘古墳公園として整備されている中の最大の前方後円墳がネヒメの墓と伝えられています。
[賀毛(かも)の郡 楢原の里]
玉丘古墳公園の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~三木市 編
志深の石室
播磨国風土記には
「オケ(仁賢)、ヲケ(顕宗)両天皇が志深(しじみ)の里にいらっしゃったわけは、その父の市辺押磐皇子(いちべのおしはみこ:父は17代履中天皇)が近江の国で雄略天皇(21代)に殺されたとき、日下部連意美(くさかべむらじおみ)が、オケ、ヲケの皇子を連れて逃げてきて、この村の石室(三木市志染の窟屋)に匿いました。
クサカベムラジオミは自分が犯した罪の重いことを自ら悟り、自殺しました。
その後二人の皇子はあちらこちらと隠れ、結局、志深の村の首長の伊等尾(いとみ)の家に召し使われる身となりました。
あるとき、イトミが新築祝いをすることになって、二人の皇子に篝火をともさせ、祝い歌を詠わせました。
兄弟の皇子は互いに譲りあったあげく、弟のヲケ皇子が詠いました。
吉備の鉄で作った鍬を持ち
田を耕すように
手拍子をとって囃しなさい
私は舞いましょう
続いて詠って
近江は水のたまっている国
大和は周りを垣根のように青い山が取り囲む国
その大和で天下を治められたイチベの子孫です
下男の私たちは
これを聞いた人々は恐れ多いことだと、室内から走り出て、皇子の前にひざまづきました。
このとき、播磨の国にある大和朝廷の領地を治めるために派遣されていた山部連少楯(やまべのむらじをだて)が、歌を聞き、お顔をよく拝見して言いました。
『このお子様のために、母君の手白髪命(たしらがのみこと)は、昼は食事も召し上がらず、夜はお休みにもならず、死にそうな思いで泣いて、思いを馳せておられたお子様方です。』
と。そこで、ヲダテは朝廷に参上して上記のことを申し上げました。
すると、母君は喜び泣き、ヲダテを再び播磨に遣わし、二人の皇子をお召しになりました。
その後、皇子たちは志深の里に帰って、宮をこの土地に作ってお住まいになられました。」
とあります。
古代、政権争い・皇位継承争いに巻き込まれ、播磨の地に逃げ隠れ住んだと伝わるオケ・ヲケ皇子。
三木市志染町御坂の三木総合防災公園のある丘陵の志染小学校よりのところには、二人の皇子が隠れたと伝えられている石室が残っていて、
「史蹟 志染の石室 兵庫県」と刻された標柱が立っています。
石室の前には玉垣があり、その中に小さな社が建立されていて、現在は湧き水がたまっています。
側の説明版によると、この水は冬から春にかけての時期、ヒカリ藻という小さな藻によって水面が金色に輝くという不思議な現象をおこすことがあるそうです。
[美囊(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里]
志染の石室の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~福崎町 編
高岡の里 神前(かむさき)山・奈具佐(なぐさ)山
播磨国風土記には、
「伊和大神の御子である建石敷命(たけいはしきのみこと)が山崎の村の神前山にいらっしゃいます。
神がいらっしゃるので、神前の郡といいます。」
とあり、高岡の里には
「この里に高い岡があります。そこで高岡という名がつきました。」
と記されています。
また、この高岡の里に登場する地名は「神前山と奈具佐山」の二つだけですが、神前山はこの郡の冒頭部分にも登場しているように神前の郡のシンボルともいえる山です。
現在の神崎山の南麓には「建石敷命」を御祭神とする二之宮神社が鎮座しています。
一宮神社が「伊和大神」を御祭神とし、その御子をお祭りする所を二之宮神社ということから、この神崎山一帯は古より崇高な神域とされてきたようです。
一方、奈具佐山については、
「檜が生えている。地名の由来はわからない。」
と記されていますが、福崎町田口には「七種の滝」で有名な「七種山(なぐさやま)」と呼ばれている山があり、この山が奈具佐山にあたると言われています。
[神前の郡 高岡の里]
二之宮神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~たつの市 編
粒丘(いいぼおか)
播磨国風土記には
「粒丘という名前がついたわけは、天日鉾命(あめのひぼこのみこと)と葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)が領土争いをした際に、葦原志挙乎命がこの丘で食事をしたとき、口から粒(米粒)が落ちました。
そこで、この粒丘という名前がつきました。」
とあります。
この粒丘の比定地については諸説ありますが、たつの市揖保町中臣(なかじん)に延喜式名神大社・中臣印達(なかとみいだて)神社が鎮座しており、境内には「粒丘」と刻まれた石碑があります。
[揖保の郡 揖保の里]
中臣印達神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~神河町 編
堲岡(はにおか)の里
播磨国風土記には
「大汝命(おおなむちのみこと)と小比古尼命(すくなひこねのみこと)の二柱の神様が、埴(赤土の粘土)の荷物を背負って歩いて行くのと、便意を我慢して歩くのとどちらが遠くまで行けるか、という我慢比べをしました。
何日か経って我慢しきれなくなったオオナムチノミコトがとうとうその場で大便をしてしまいました。
それを見て、スクナヒコネノミコトも、笑って自分も苦しかったことを告げ、埴を道端に投げ出しました。この埴が投げ出された岡を埴岡と、また、オオナムチノミコトの便が、笹の葉にはじかれて飛び散った場所を、波自賀(はじか)と言うようになりました。
投げ出された埴と便は固まって石に姿を変えました。」
とあります。
この里の話は、「古事記・日本書紀」の神話の世界とは全く異なったユーモラスな伝承です。
現在、神崎郡神河町比延(ひえ)に鎮座している日吉神社の辺りは、「埴岡の里」の伝承地といわれ、神社前の道脇には「播磨風土記 埴の里」の標柱が建立してあります。
そして、スクナヒコネノミコトが投げた埴から変わったと言われる大きな岩が社殿の裏山の中腹に注連縄をかけて祀られています。
[神前の郡 堲岡の里]
日吉神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~佐用町 編
佐用の名前の由来 (佐用都比売神社)
播磨国風土記には
「伊和大神とその妹の玉津日女命(たまつひめのみこと)の二柱の神が、競争して国占めをなさったとき、タマツヒメノミコトは鹿を取り押さえ、その腹を裂いて稲種をまきました。
すると、一夜にして苗が生えたので、直ちにこれを取って、田に植えさせられました。
伊和大神は『お前は、五月夜(さよ)に植えたのだなあ。
夜に仕事をしてはいけないのに・・・・・』
とおっしゃって、他の土地へ去っていかれました。
そこで、五月夜(さよ)の郡という名がつき、妹神は賛用都比売命(さよつひめのみこと)という名前がつきました。
現在、佐用郡佐用町本位田(ほんいでん)には、サヨツヒメノミコトを御祭神とする式内社の佐用都比売神社が鎮座しており、
境内には、「播磨風土記・続日本後記 記載神社標」
という標柱が立っています。
[讃容の郡]
佐用都比売神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~高砂市 編
石の宝殿
播磨国風土記には
「原の中に池があるので池之原と言います。
この池之原の南に石造物があります。
その形は家のようで、幅二丈(約6m)奥行き一丈五尺(約4.5m)高さも同様です。
その名を大石と言います。
言い伝えによると、聖徳太子の御世に弓削大連(ゆげのおおむらじ)が作った石だということです。」
とあります。
これが、現在高砂市阿弥陀町に鎮座している生石(おうしこ)神社のご神体で、「石の宝殿」と呼ばれている謎の巨大石造物です。
この辺りの石は竜山石(たつやまいし)と呼ばれ、古代から石棺や石垣等によく使用されてきて、今も砕石は盛んです。
この巨石については、石棺を作る途中の段階のものと言う説もありますが、いつ、誰が、何の目的で作ったものであるかは、学術的には判然としていないようです。
[印南の郡 大国の里]
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古の播磨を訪ねて~加古川市 編
褶墓(ひれはか)
播磨国風土記には、
「景行天皇のお后であられた印南別嬢(いなみのわけいらつめ)がお亡くなりになったとき、墓を日岡に作り、その遺骸を担いで、印南川(今の加古川)の西岸から東岸へ渡ろうとしました。
すると、川下から大風が吹いてきて、遺骸は川の中に引きずりこまれてしまいました。
探しても見つからず、ただ、櫛を入れる箱と褶(ひれ:女性が首にかけ左右に長くたらした布で、ひらひら振ると魂を奮い立たせる力があると信じられていたといいます)だけが見つかりました。
そこで、この二つを墓に葬り、褶墓と名付けました。」
とあります。
現在、日岡神社の東側に宮内庁管轄の日岡陵として存在していて、昭和45年頃までは、御陵護衛の小屋もあって、護衛官もいたそうです。
陵墓に登る途中では、梢の間からとうとうと流れる加古川を見渡すことができ、小鳥のさえずりを聞きながら風土記の時代にタイムスリップした気持ちになります。
[賀古の郡]
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古の播磨を訪ねて~宍粟市 編
庭音(にわと)の村(庭田神社)
播磨国風土記には、
「元の名は庭酒(にわき)です。
伊和大神の食料の乾飯(かれいひ)が濡れてカビが生えてしまい、この飯から酒を醸造させて庭酒(お神酒)として献上して酒宴を開きました。
だから、元は庭酒村と言いましたが、今の人は庭音村と言っています。」
とあります。
いわゆる、この記載部分が、日本で初めて麹を使って酒を造ったと言われている箇所です。
現在は一宮町能倉(よくら)に式内社の庭田神社が鎮座しており、
本殿裏の「ぬくゐ水」で酒を造った旨の言い伝えが残っています。
[宍禾(しさは)の郡 比治の里]
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