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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~高砂市編 その4

古の播磨を訪ねて~高砂市編 その4
高砂神社の大鳥居

高砂神社

今回は、8月下旬に高砂市高砂町東宮町190の高砂神社を訪ねました。
『あかあかと日はつれなくも秋の風』と芭蕉の句が頭をよぎりますが、当日は、快晴の残暑厳しい日でした。そんな炎天下の元、じっくりと境内を拝観させていただきました。


先ず、阪神淡路大震災で倒壊してしまった後の平成7年に建て替えられた大鳥居は立派なもので、その奥にある山門は、よく見ると、組み物や彫刻など細かいところまでなかなか意匠をこらしたものでした。
そして、山門をくぐると、右手には高砂市指定の天然記念物で、樹齢1000年を超えるというご神木のいぶき(槙柏)が、出迎えてくれます。不思議なことにその枝葉を全て本殿の方に向け、1000年の風雪に耐えて根を張っています。その堂々たる威風に、思わず柏手を打ってしまいました。
次に、拝殿・幣殿、そして、木の薄板を敷き詰めたこけら葺きの本殿に続いていきます。


さて、古くから謡曲「高砂やこの浦船に帆を上げて・・・」と、親しまれている高砂神社は、神功(じんぐう)皇后の命によって創建されたと伝えられ、素盞鳴尊(すさのをのみこと)とそのお后奇稲田姫(くしなだひめ)、その王子の大己貴命(おおなむちのみこと)の三神をご祭神として祀られています。

また、社伝によると、"縁結びの松として知られる「相生の松」が高砂神社に生え出たのは、神社が創建されて間もない頃で、その根は一つで、雌雄の幹に分かれていた。これを見る人は「神木霊松」と称えていたところ、尉(じょう)と姥(うば)の二神が現われて『我らは、今よりこの木に宿り、世に夫婦の道を示さん』と告げられた。これより「相生の松」と呼び、この二神を「尉と姥:おじいさんとおばあさん」として、めでたい結婚式には、なくてはならないいわれになった"ということです。


現在は、故秩父宮勢津子妃殿下御命名の「5代目相生の松」が、本殿東側の玉垣の中で、緑の色も濃く立ち栄え、伸び伸びと生育しています。
境内南東部分には謡曲高砂を演じる立派な能舞台もあります。この上記一連の話が高砂市が掲げている「ブライダル宣言都市高砂市」のいわれで、改めて、まことに目出度し、目出度しと思った次第です。

古の播磨を訪ねて~神河町編 その4

古の播磨を訪ねて~神河町編 その4
立岩神社
 立岩(たていわ)神社

「六月や峰に雲置く嵐山」松尾芭蕉が京都嵯峨野の落柿舎滞在中に詠んだこの句がなぜか頭をよぎる8月(旧暦の6月)の初めに神河町峰山の麓の「立岩神社」を訪問してきました。暑かった。関西では連日の猛暑日でした。

さて、この立岩神社については、ずーっと以前から興味関心のあるお社でしたが、今回改めて現地取材することによって、ますます関心が深まりました。

先ず、このお社の建っている場所は神河町宮野ですが、お社のすぐ南を小田原川(播磨国風土記の湯川と比定されている)が流れていて、その南に、岩肌が露出した大きな屏風のような断崖絶壁があります。それで、小字を「岩ノ下」と言い、お社に近い一帯は今もこう呼ばれています。そして、今回の目的の「立岩神社」は、元来その断崖絶壁の岩の上にお社を祀ったので、その名前がついたようです。

次に、この宮野地区には民家が46軒あるようですが、なんと、その内、35軒が「立岩」とおっしゃる姓のようです。当日、たまたまご案内いただいた「立岩神社」の前総代さんも「立岩」さんでした。

ところで、この「立岩神社」には、日本でも珍しい「藤木(ふじき)」が6本自生していて、神河町の天然記念物に指定されています。この木は、木の肌は樫の木とほとんど見分けがつきません。ただ、葉っぱが、つる性の「藤」の木にそっくりで、そこから「藤木」という名前がついたようです。この「藤木」を自分一人で確認するのは、かなり難しいと思います。先の案内人の立岩さんに1本1本教えていただいて、それと分かりました。

「断崖絶壁の岩・立岩神社という名前・岩ノ下という小字・立岩という姓」これら一連のことを色々と考えるながら、何かほんわかとしたノスタルジックな気持ちで神河町をあとにしました。

古の播磨を訪ねて~三木市編 その4

古の播磨を訪ねて~三木市編 その4
「天津(あまつ)神社」

吉川(えがわ)の里

 
播磨国風土記には「吉川という名がついたのは、吉川の大刀自(おほとじ)の神がここにいらっしゃいます。そこで吉川の里という名がつきました。」とあります。
 
今回は、うだるような暑さの8月上旬に、三木市吉川町(よかわちょう)を訪ねました。
播磨国風土記に記載されている「吉川の里」は、現在の三木市細川から吉川町にかけての美襄(みのう)川流域を指すものと考えられています。
この「吉川の里」は播磨国風土記では、「美襄(みなぎ)の郡」に所属しています。平成17年(2005)の合併によって、「美襄(みのう)郡吉川町」から「三木市吉川町」に変わり、この時点で千数百年続いてきた「美襄郡」は完全に消滅してしまい、少し寂しい気持ちがします。あとは、吉川町と美襄川の名が後世に残ることを願うばかりです。
 
次に、「吉川の大刀自の神」ですが、この神をお祀りしてある神社は、残念ですが、吉川町では探し当てることができませんでした。
 
ところで、ここ吉川町の前田という所には、国指定の重要文化財「天津(あまつ)神社」が鎮座しています。
このお社は、延徳4年(1492)に村人が一致協力して建立したことが由緒記に記録されているようです。
どちらかといえば小さいご本殿ですが、正面一間・側面二間・入母屋造り・妻入り向拝の檜皮葺で、その組み物や彫刻は細かいところまで手の込んだ素晴らしいものです。平成15年(2003)12月に改修工事を終えて、鮮やかな朱塗りのご本殿が復活しています。
 
さて、今回の吉川町訪問では、県道316号線を天津神社を目指して気持ちよく車を走らせていました。
そのとき、すくすく育っている早苗の道路脇を、ふと見れば、ある大手酒造メーカーの「山田錦契約地」と書いてある幟があちらこちらの田に沢山立ててありました。改めて、ここが「山田錦の日本一の産地」と気づいた次第です。
そして、これぞ正しく「青田買い」と思いながらも、今までに口にした色々な大吟醸の銘柄が頭に浮かんできて、より楽しい吉川町巡りとなりました。 (美襄の郡)

古の播磨を訪ねて~加西市編 その4

古の播磨を訪ねて~加西市編 その4
糠塚山と「逆さ糠塚山」
 飯盛岳(いひもりたけ)・糠岡(ぬかおか)
 
播磨国風土記には「飯盛岳と名がついたのは、大汝命のご飯を、この山に盛りました。そこで飯盛岳といいます。糠岡という名がついたのは、大汝命が、下鴨の村で稲をつかせられたところ、糠が散って、この岡に飛んできました。そこで糠岡と言います。」とあります。
 
今回は6月の梅雨の合間に、現在の加西市で播磨国風土記の中で「米」に関係する記述のある二ヶ所を訪ねました。
山陽自動車道の加古川北ICで降りて、風土記記載の「糠岡」の比定地と言われている「糠塚山」を目指しました。加西市網引町(あびきちょう)と小野市西脇町との境界にある標高150mほどの富士山を小さくしたような美しい山がそれでした。
 
北側を万願寺川が流れ、西から北にかけては低い台地状の平野が広がっていて、南には小高い丘が続いていました。平野部では、田植えの済んだ田園が広がっていて、そこに、逆さ富士ならぬ、「逆さ糠塚山」が映っていて、久々に感動ものに出会いました。
 
次に「飯盛岳」ですが、加西市豊倉町には兵庫県立フラワーセンターがあり、その裏山の124mの「飯盛山」が比定地とされています。
ひょうご歴史研究室研究コーディネーターの坂江渉氏は、『飯盛山という名には、神をもてなすため、地域の人々が捧げた御飯などのご馳走を神と一緒に腹一杯食べられる機会、所謂この地域あげての村祭を思い出させる山という意味も込められている』と言っています。
 
また、民俗学者の柳田国男氏は、この「盛る」という言葉について、『ものを高く積み上げるという意味と神や貴人に酒食を出してもてなすという意味がある。後者の用法は、今も《酒盛り》などの使い方で残っている』と言っています。
 
この二人の考えを参考にしながら、古代においては、ご飯を腹一杯食べたり、酒盛りをするということは、夢のまた夢で、糠岡や飯盛もその気持ちの表われであったのではないか、と思いました。
現在は米離れが進んで、年々米の消費量は減少の一途を辿っているようですが、古代人が今の私たちの食生活を見たら、どう思うだろうかと考えながら飯盛山を後にしました。
 
(賀毛の郡)

古の播磨を訪ねて~加古川市編 その4

古の播磨を訪ねて~加古川市編 その4

 含芸(かむき)の里

 

播磨国風土記には

「元の名は瓶落(かめおち)です。土地は中の上です。瓶落と名づけたわけは、第16代仁徳天皇の御世に、私部(きさきべ)の弓取(ゆみとり)らの先祖、他田熊千(おさだのくまち)が、酒を入れた瓶を馬の尻につけて、どこに家を作ろうかと探していたとき、その瓶が、この村に落ちました。そこで瓶落といいます。

また酒山があります。第12代景行天皇の御世に、酒の泉が湧き出しました。そこで酒山と言います。農家の人たちが飲んで、酔っぱらって大喧嘩をしたので、埋めて塞がせてしまいました。その後、第38代天智天皇9年(670)の御世に、ある人が掘ってみたところ、まだ酒の気がありました。」とあります。

 

今回は加古川市を訪問しました。加古川バイパス加古川西ランプで降りると、そこは東神吉町(ひがしかんきちょう)西井ノ口です。現在、加古川市には東神吉町・西神吉町があり、その大まかな範囲はJR山陽本線より北で、東は加古川、西は高砂市、北は加古川市志方町に挟まれた地域でかなり広範囲に及びます。

また、公共の建造物としては、「加古川市立西神吉小学校・東神吉小学校・東神吉南小学校・神吉中学校」が「カンキ」の名前を今に伝えています。

 

次に、神吉中学校から北西約2㎞に存在する「宮山」の南麓には、第15代応神天皇をご祭神とする「神吉八幡神社」が鎮座し、立派なご社殿を誇っています。「神吉」の一番北に鎮座ましまし、南に広がる「神吉」の町々を見守っているように感じられました。

このお社は、応永3年(1396)大国村に創建されましたが、その後、応仁2年(1468)に現在地に移転されています。毎年10月15日の秋季例大祭には、布団屋台が出て、大いに賑わうようです。

 

最後に、元の名前の「カメオチ」と「酒山」ですが、「カメオチ」が訛って「カムキ」になったような気もしますが、地元の人々にお聞きしましたが、流石に「カメオチ・酒山」という地名もしくは建造物等は、残念ですが今に残っていないようでした。

播磨国風土記本文のように「酒の泉」があれば、アルコール好きの人にとっては、無上の喜びというか、それこそ夢のような話だろうな、と思いながら帰路につきました。(印南の郡)

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その4

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その4

布勢駅家(ふせのうまや)

今回も『播磨国風土記』を少し離れて、たつの市揖西町小犬丸の「布勢駅家」を訪ねました。
「駅家」の数は時代により変遷していますが、927年に編纂された『延喜式』には、全国に402の「駅家」があったことが記載されていて、それによると、播磨国山陽道には7ヶ所存在したことが分かります。
400以上もあった「駅家」の存在場所については、「この辺りらしい!?」というところまでは、分かっていても、いずれもハッキリとした比定地はありませんでした。

ところが、昭和61年1月から実施された「小犬丸遺跡」の発掘調査により、数ある駅家の遺跡の中で、ここぞ「布勢駅家跡」と、駅家跡としては全国で初めて比定され、高校の日本史の教科書にも載るような大発見だったそうです。

当時の県の埋蔵文化財調査事務所によれば、文献による「駅家」は、瓦葺の建物であったようです。従来は、瓦が出土すれば寺院跡と考えるのが一般的でしたが、播磨国で古代山陽道上に、奈良時代後期の播磨国府系瓦がまとまって出土する遺跡は12ヶ所あり、このうちで、塔跡があって、確実に寺と分かるものは、5ヶ所しかなく、残りの7ヶ所は何なのか?という疑問が起こりました。
ところが、『延喜式』の7ヶ所の「駅家」は、ほぼ前述の国府系瓦出土遺跡と重なるのです。
このようにして、「小犬丸遺跡」は「布勢駅家跡」と推定され、それに『驛』や『布勢』の地名の墨書土器が出土していることが、このことを裏づける有力な証拠となったということです。

その後、『延喜式』以前に廃止された「邑美駅家・佐突駅家」が存在したことも研究により分かってきました。

今回も「駅家」を考察してきました。これで、播磨国の東から、「明石・邑美・加古・佐突・大市・布勢・高田・野磨」と8つの「駅家」をおさえることが出来ました。
残りは姫路の「草上駅家」だけですが、これが、諸説紛々としていて、さてさて、どこに存在したのか?そして、この「駅家」を直線的に結んでいた播磨古道はどこを通っていたのか?ロマンは果てしなく広がっていきます。
 

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その4

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その4
「佐突駅家跡」石碑

佐突駅家(さつちのうまや)

 今回は、紫陽花が梅雨の合間の太陽に美しく映える6月の上旬に、姫路市別所町北宿の「佐突駅家」を訪ねました。国道2号線沿いに「佐突駅家跡」という石碑が建立されています。

 「佐突駅家」は、『播磨国風土記』は勿論ですが『延喜式』にも記載がありません。ただ、『続日本後記』承和六年(839)二月戊寅(つちのえとら)二十六日の条に「播磨國印南郡佐突駅家、旧に依(よ)りて建立す」と記されています。「旧に依りて」ということですから、一旦廃止されていた「駅家」を再び設置したものと思われます。

 ここには、かつて「北宿廃寺」と呼ばれ、旧山陽道想定路線の南に瓦の出土する遺跡がありました。その後の発掘で、播磨国府系瓦の「北宿式」の名前のもととなったこの「北宿遺跡」こそ、この「佐突駅家」と考えられるようになっています。

 また、この「駅家跡」の北東数百メートルのところにある白陵中・高校付近は、小字名を「馬ケ谷」と言い、古代、その谷間という地形を利用して、駅馬を放牧していたと考えられています。

 ただ、この遺跡周辺は大正時代から工場造成が盛んに行われ、特に近年の道路整備等、市街化は著しく、残念ですが「佐突駅家」の遺構の面影を残すところはほとんど消え去ってしまったと考えられているようです。

 この「はりま風土記紀行」で7回に分けて播磨国の「駅家」を取り上げてきました。何分、最大1370年も前(645年の大化の改新以後)のことのため、文書資料は限られていますし、発掘現場は工場化・市街化されている部分も多く、遺跡そのものが現時点では消滅してしまったと考えざるを得ない「駅家」もありました。
その中でも兵庫県立考古博物館をはじめ各市町の地道な調査のお陰で、おおまかにそれぞれの地点をおさえることができ、残りは、姫路市の「草上駅家」と、たつの市の「小犬丸遺跡」所謂「布勢駅家」となりました。これら9つの「駅家」を繋いでいけば、古代山陽道・播磨古道がおぼろげながら見えてくるような気がします。

古の播磨を訪ねて~明石市編 その4

古の播磨を訪ねて~明石市編 その4
長坂寺遺跡説明文1
古の播磨を訪ねて~明石市編 その4
長坂寺遺跡説明文2

邑美駅家(おうみのうまや)

今回は、風薫る5月の中旬に、明石市魚住町の「長坂寺(ちょうはんじ)遺跡」を訪ねました。

第二神明道路の大久保IC上りで降りて左折し、大久保インター前の信号を右折して、道なりにどんどん進みました。
「竜が岡4丁目」の信号を左折して、県道379号線に入ってすぐ次の「北場」の信号を90度に右折して379号線を約3㎞ほど直進、その間の3つ目の点滅信号を左折し、旧山陽道に入ってすぐ左手が目的地です。
ここまではナビ無しでも案外スムーズに行くことが出来ました。

県立考古博物館によると、この地では、大正年間から古瓦が採集されていて、長年古代寺院の廃寺跡と考えられ、一般に「長坂寺遺跡」と呼ばれています。
平成22~23年にわたって調査したところ、築地塀跡が、一辺80mの方形区画の「駅家」であることがわかりました。
古代山陽道沿いで古瓦の出土ということ、そして、古代山陽道上に「駅家」の位置を当てはめていくと、丁度ここが「駅家」にふさわしい場所と考えられ、従来から言い伝えられていた廃寺跡ではなく「駅家」跡と確認したということです。

ただ、この「長坂寺遺跡」は、『延喜式』『和名類聚抄』『続日本記』等の書物に「駅家」としては一切記録されていません。早くに廃止されてしまったようです。
この辺りで「山陽道」と呼ばれている道から約10mほど北に入った木々の間に、明石市教育委員会が標柱を立てていましたが、これを見つけるまでが大変でした。道行く人に尋ねて、3人目で建立場所を確認出来ました。

それには『古代山陽道の明石の駅家と賀古の駅家の中間につくられた駅家跡と考える』と説明されていました。古代の地名の「邑美郷」にちなんで、仮称「邑美駅家」と呼ばれるようになり、これが「邑美駅家=まぼろしの駅家」と言われている所以なのです。

普通「駅家」は30里(約16㎞)ごとに置かれていましたが、播磨国の山陽道だけは、半分の距離の15里ごとに9つの「駅家」が配置されていたことが分かってきています。古代山陽道は当時の幹線道路でしたから、往来する人が多かったということでしょうね。

古の播磨を訪ねて~太子町編 その4

古の播磨を訪ねて~太子町編 その4
太子町立石海(せっかい)小学校

石海(いはみ)の里

 播磨国風土記には、「土地は上の中です。石海というのは、難波の長柄(ながら)の孝徳天皇の代に、この里の中に、百足(ももたり:何でも揃う)の野があって、百枝(ももえ:稲穂の多い)の稲が育ちました。そこで阿曇連(あづみのむらじ)百足が、その稲を刈り取って天皇に献上しました。そのとき、天皇がおっしゃいました『この野を開墾して、田を作らねばならない。』そこで阿曇連太牟(たむ)を石見(いわみ:島根県西部)に派遣して、人々を集めて連れて帰り、開墾させました。そして、野を名づけて、百足といい、村を石海と名づけました。」とあります。

 今回は、ゴールデンウィーク中に、太子町を訪ねました。現在、太子町福地422には、「太子町立石海(せっかい)小学校」があり、その南西には「太子町岩見構(いわみかまえ)」が、そして、揖保川に架かる王子橋を西に渡れば御津町中島に「揖保岩見神社」が鎮座しており、浜国道「室の七曲り」の東入口には「御津町岩見(いわみ)」という地区があります。

 これらのことから、播磨国風土記の「石海の里」は、現在の太子町立石海小学校辺りから姫路市網干区・余部区、たつの市御津町岩見の辺りまでと考えられています。そして、その「いわみ」という地名は「出雲国いわみの里」からつけたというのです。ただ、「百足の野」の比定地は、不明のようです。播磨国風土記には、出雲のことは、沢山記載されていますので、当時から、出雲との交流は盛んに行われていたと考えられています。

 以前にも触れましたが、播磨国風土記では、土地の等級を「上の上」から「下の下」まで、9段階に分け、「上の上」は0で、「上の中」が5ヶ所あります。この「石海の里」は「上の中」で、土地は揖保川の扇状地になり、温暖かつ肥沃で、本文中にもあるように、稲作りが盛んに行われ、沢山の収穫があったようです。現在の太子町や姫路市南西部、御津町はその流れを今に引き継いだ農業の盛んな地域です。

 今回訪れたときも、岩見構あたりは、見渡す限り一帯に小麦畑が広がっていました。地名だけでなく、産業も古代からのものを今に伝えているように思い、改めて新しい発見をしたような気がした1日でした。

古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4

古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4
大きなS字形を描いた美しい流れ
古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4
ミニモノレール

比治・川音

 播磨国風土記には、「宍禾(しさは)という名がついたのは、伊和の大神が、国を作り固められた後、山川谷尾根を国の境として、国内を巡行なさったとき、矢田の村で、舌を出している大きな鹿に出会われました。そこで、大神は『矢は、鹿の舌にある』とおっしゃいました。そこで、シサハ(鹿会:シシアハ)の郡と名づけ、村の名を矢田の村と名づけました。土地の肥え具合は、中の上です。

 比治という名がついたわけは、孝徳天皇の御世に、揖保の郡を分けて、宍禾の郡を作ったとき、山部の比治が、里長に任命されました。この人の名によって、比治の里といいます。

 川音(かわと)の村 天日槍命がこの村にお泊りになって『川の音が大変高い』とおっしゃいました。そこで川音の村といいます。」とあります。

 播磨国風土記のこの条には、少し矛盾するような記述があります。最初の部分で、伊和大神の国占めの後に「宍禾の郡」ができたことを述べ、その後、第36代孝徳天皇の御世に「揖保の郡」から分割して「宍禾の郡」ができたと記されています。この点については、一般的にはあまり問題視されてはいませんが、個人的には、どちらがどうなのか興味を抱いている箇所です。

 今回は321日の春分の日に、宍粟市山崎町の「上比地・中比地・下比地・川戸」を訪ねました。播磨国風土記記載の「比治の里・川音の村」は今も健在でした。ここ「上比地」には、「兵庫県立国見の森公園」があり、その頂上まで標高高低差約300m、延長1100mを約18分かけて上るミニモノレールに乗りました。

 途中、滔々と流れる揖保川を中心に、宍粟市山崎町の中心部分を眺めることができます。やや、春霞がかかっていましたが、展望台から眺めるとその揖保川は山崎町やたつの市あたりでは全体的に北から南へ流れていますが、山崎町御名(ごみょう)と川戸を繋ぐ戸原橋の少し南あたりから大きなS字形を描いた美しい流れになっています。

 帰宅途中に、車の通らない揖保川東の川戸側の土手に立って川の流れを観察してみると、確かに播磨国風土記記載のように「高い川の音=美しいせせらぎの音」が今もしていて、穏やかな日差しを浴び、土筆狩りをして春の息吹を楽しむことができました。

 

「兵庫県立国見の森公園」のHPは こち   地図は こち