古の播磨を訪ねて~多可町編 その2
託賀(たか)の郡・賀眉(かみ)の里・大海(おおみ)
播磨国風土記には「昔、巨人(おおひと)がいて、頭がいつも天につかえるため身をかがめて歩いていました。南の海から北の海に行き、東から国の中を巡行したとき、この土地に来ていいました。『他の土地は天が低いので、いつも身をかがめ伏して歩いていた。この土地は天が高いので、体を伸ばして歩ける。高いなあ。』そこで、託賀の郡といいます。巨人の足が踏んだ跡は、沢山の沼となっています。
賀眉の里 この里は加古川の川上にあるので、賀美という名となりました。
大海という名がついたわけは、昔、明石の郡大海の里の人がやって来て、この山の麓に住んでいました。そこで、大海山といいます。松が生えています。」とあります。
姫路市網干区の魚吹(うすき)八幡神社秋祭り本宮の10月22日に、後ろ髪を引かれながらも、午前中に何とかしたいと思い、早朝より多可町の加美(かみ)区を訪ねました。このシリーズ10回目に取り上げました加美区的場の「播磨国二宮荒田神社」の横を通って国道427号線に出ました。国道の左右には美しいコスモス畑が広がる中、加美区箸荷(はせがい)を目指しました。地元の方3人に、別々に「おおみ山」について尋ねましたら、その3人の方が一様に「おおみ山は分からないが、おおみ坂はありますよ。」とおっしゃって、その坂を教えてくださいました。国道427号線から南を見て、山の稜線に立つ鉄塔の右側の杉・檜林の中にある林道がそれだということでした。ここが、一応播磨国風土記に記載されている「大海山」に比定されているようです(写真参照)
途中、「天たかく 元気ひろがる 美しいまち 多可」という看板を目にしました。そこで、改めて周りの山々を眺めて見ますと、明らかに高い山々が連なっていました。はるか北の方の千ケ峰と思われる山の頂は雲に覆われていました。「山が高い=天が高い」となり、これが、まさに「タカの郡」という名前がついた所以であろうかな、と思うと同時に、巨人の元気溌剌のびのびと動き回っている様子を想像し、古代に思いを馳せながら帰路につきました。
(託賀の郡・賀眉の里)
古の播磨を訪ねて~三木市編 その2
播磨国風土記には「昔、履中天皇が国の境を定められたとき、志深の里の許曽(こそ:古代朝鮮語で尊敬の意味)の社にやってこられて、『この土地は水流(みながれ)が大変美しいなあ』とおっしゃいました。そこで、ミナギの郡という名がつきました。」とあり、続いて、「履中天皇が、ここの井戸のそばで食事をなさったとき、シジミ貝が弁当の箱のふちに遊び上がりました。そのとき、天皇が『この貝は、阿波の国の和那散(わなさ:徳島県海部郡海陽町)で私が食べた貝だなあ』とおっしゃいました。そこで、シジミの里と名づけました。」とあります。
今回は、台風27号・28号がはるか南海上で日本襲撃を狙っている10月の中旬に三木市界隈を訪ねました。現在、三木市の北部から中部にかけて「美囊(みの)川」が流れており、三木市岩宮で「志染川」が南東から流れ込んできています。そして、この「美囊川」は三木市別所町正法寺で大河印南川(現在の加古川)に合流していきます。
「美囊川」沿いで、風土記に記載されている「ミナギ」という地名を今に伝えるものとしては、三木市吉川町みなぎ台の「三木市立みなぎ台小学校」があります。この小学校は平成11年4月に開校した三木市内で一番新しい小学校です。
しかし、この小学校も最盛期には600名近くの児童が在籍していたようですが、現在は各学年1クラス、全校児童数120余名で、将来的には近隣の小学校と統廃合されるかも、ということでした。ここにも、由緒ある地名のついた小学校がなくなるのではないかという寂しい話がありました。
一方、「志染川」沿いには広大な志染町に「三木市立志染小学校・志染中学校、神戸電鉄粟生(あお)線の志染駅」等があり、古代からの地名を今に伝えています。
三木市内には、「山田錦日本一の生産地」というような看板があちらこちらにありました。農家の人に聞きますと、吉川町の「山田錦」は稲の穂先まで、150㎝にも成長するようです。また、10丁もの酒米を作っている農家もあるということでした。それに、酒米の看板だけでなく「日本一美しいまち三木をめざそう」という看板もありました。そこに、「山田錦の全国一」に加えて、三木市の皆さんの「美しいまち=美しいこころ=こころやさしい人」の集団、全国一をめざそう!!という強い心意気を感じました。
さて、播磨国風土記本文ではこの「志深の里」の条の後半部に、このシリーズ8回目に取り上げましたかの有名な「志深の石室」のヲケ(23代顕宗天皇)・オケ(24代仁賢天皇)の両天皇の話が出てきます。 (美囊の郡 志深の里)
志染中学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加西市編 その2
播磨国風土記には「賀毛(かも)と名づけたわけは、応神天皇の時代、つがいの鴨が巣を作って卵を産みました。そこで賀毛の郡といいます。
上鴨の里 土地は中の上です。
下鴨の里 土地は中の中です。応神天皇が国内の様子をご覧になるため巡行なさったとき、この鴨が飛び立って、修布の井戸の木にとまりました。このとき天皇が『何の鳥か』と尋ねられました。お供の人で当麻品遅部君前玉(たぎまのほむぢべのきみさきたま)が『川に棲んでいる鴨です』とお答え申し上げました。この鴨を、天皇の命令で、弓で射させられたとき、一本の矢を放って、二羽の鳥に当たりました。鳥が矢をつけたまま山の峰を越えた所は、鴨坂と名づけ、落ちて倒れた所は、鴨谷と名づけ、鴨の吸い物を煮た所を、煮坂と名づけました。
修布の里 土地は中の中です。この村に井戸がありました。一人の女が水を汲んでいて、そのまま井戸にスイ込まれてしまいました。そこで、スフという名がつきました。」とあります。
10月に入り、あちらこちらで祭りの笛や太鼓の稽古が盛んになったある日、加西市を訪ねました。この鴨の里に登場してくる地名で、「鴨谷」は現在の加西市鴨谷に、そして「鴨坂」はその鴨谷から北条町横尾へ越える「古坂(ふるさか)峠」と比定されています。「煮坂」については不明のようです。
次に「修布の里」は加西市吸谷町(すいだにちょう)と考えられています。風土記に記載されている「修布の井戸」は、今も加西市吸谷町の民家に残っている井戸のようです。御当主の話によりますと、その井戸は現在も使われていて、しかも三軒の家が、この井戸からポンプで水を汲み上げて、使用しているとのことです。古代からずーっと利用されている井戸が、水脈が変わることもなく今に残っているということで、過去のそのときどきに生きたそこの人びとが、生活の中で、何よりも「水」を大切にしてきたかということが分かります。その井戸が今に伝わるということ自体、神がかり的なことと思われ、それこそ何か清い水で洗われたような非常に清々しい気持ちになりました。
なお、加西市は来年早々に、ここにこの「修布の井戸」に関する説明版を設置するようです。
(賀毛の郡 上鴨・下鴨の里)
古の播磨を訪ねて~佐用町 編 その2
吉川(えかわ)
播磨国風土記には
「元の名前は玉落川です。伊和大神が身に着けておられた玉が、この川に落ちました。そこで玉落川といいます。
今、吉川と言いますのは、稲狭部大吉川(いなさべのおほえかわ)がこの村に住んでいましたので、吉川といいます。
その山に黄蓮(カクマグサ)という薬草が生えています。」とあります。
9月下旬の素晴らしい秋晴れの日に佐用町の「江川」へ行っきました。
ここには、中国山地に源を持ち、佐用町の地元で「願應寺」と呼ばれている所で佐用川に合流する「江川川」が流れています。
この「江川」という名前のもととなった「イナサベノオホエカワ」という人物は、出雲国出身で製鉄業に従事していたのではないかといわれています。
現在の島根県出雲市の出雲大社の西に、旧暦の10月に日本国中から八百万の神様がお集まりになるというそれはそれは美しい砂浜があり、そこを「稲佐(イナサ)の浜」と呼んでいることと関係があるようです。
次に、佐用町大畠(おおばたけ)133には、「江川神社」が鎮座しています。この神社の本殿は、室町時代中期の文案4年(1447)の創建で、佐用町内最古の建築物です。
また、町内唯一の県指定の重要文化財建築物でもあります。
本殿は、屋根は全面、側面も部分的に仮屋で覆われて雨風をしのいでいますので、本殿の全体像をはっきり見極めることはできませんでしたが、組み物等、かなり細部にわたって意匠を凝らしたものでした。
また、佐用町豊福278番地には「佐用町立江川小学校」があり、前述の「江川川」・「江川神社」同様に古代からの地名を今に伝えています。
筆者が訪ねたときは残暑厳しき折でしたが、炎天下の運動場でマーチングバンドの稽古を、児童・先生一体となって行っていました。
「運動会で披露するのだろうなあ」と思いながらときの経つのも忘れて、しばし見入ってしまいました。
最後の「カクマグサ」という植物ですが、現在「オウレン」と呼んでいる漢方薬の古名で、福井県や京都府、兵庫県では栽培しているようです。
そして、この名前が播磨国風土記にはじめて見えることから、播磨地方でも古代から栽培されていたのではないかといわれています。
[讃容の郡 讃容の里]
江川小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~神河町 編 その2
粟鹿川内(あはがかふち)・大川内(おおかふち)・湯川
播磨国風土記には
「川が但馬の阿相(あさご)郡の粟鹿山から流れてきています。
そこで、粟鹿川内といいます。ニレが生えています。
大川によって、大川内という名としました。檜・杉が生えています。また、生活や風習の違う北国の蝦夷(えみし)の人たちが三十人ほど暮らしています。
昔、湯がこの川に出ていましたので、湯川といいます。檜・杉・ツヅラが生えています。
また、蝦夷の人たち三十人ほどが暮らしています。」とあります。
この条に関しては、古来色々と物議を醸している箇所です。風土記本文のように、確かに但馬の国(現在の朝来市)には「粟鹿山(あわがやま)」が存在し、頂上の電波塔が少し気になりますがその山容の美しさから「ふるさと兵庫50山」にも選ばれています。
この山の麓には延喜式名神大社・但馬一宮の「粟鹿神社」が鎮座していますことなどから、古代の但馬の人は意味ある山と考えていたようです。
ところで、生野峠より北の川は大河丸山川に支流として流れ込みますが、生野峠を越えて、市川に流れ込むことは物理的に不可能なことです。
また、「粟鹿川内」が現在のどこに比定されるのかも明確ではありません。
しかし、但馬の人々が「粟鹿山」に畏敬の念を抱いていたように、現在の神河町粟賀町(あわがまち)辺りに住んでいた古代北播磨の人々も但馬の「粟鹿山」に対して、信仰心のようなものを持っていて、その山から「粟鹿川(今の越知川を含むその支流のことか)」が流れ出し、風土記のその後に登場してくる大川(現在の市川)に流れ込んでいると思っていたのではないかと考えられています。
また、風土記の「大川内」は、まさに「大河内」で、「湯川」は、寺前の町を通って市川に合流している「小田原川」と比定されています。
現在「小田原川」の上流には峰山温泉がありますが、古代にあっても温泉が湧き出ていたのでしょうか。
台風18号が通り過ぎた後、上記の場所を訪ねました。
「粟賀小学校」では、学校南の村中の道脇に車を停めさせていただきました。
稲刈りの済んだ田んぼの畦には、まだ蕾のマンジュシャゲが沢山生い茂っており、空は澄み切っていて、山間から聞こえてくる小鳥のさえずりに耳を傾けながら小学校に向いました。ところが、小学校に近づくに従って、何か様子がおかしいのに気がつきました。
校舎も校庭も全く子どもの気配がないのです。
門は封鎖され「立ち入り禁止」の看板が貼り付けてありました。
そばを通りかかった老婆にお聞きしますと「この(2013年)4月から『大山小学校』と合併し、『神河町立神崎小学校』となって、この南西200mほどの所に移転したよ。」ということでした。
ここにも、少子化・行革の波は押し寄せ、140年も続いた由緒ある名前の学校がまた一つ消えたかと思うと、急に寂しい気持ちになってしまいました。
[神前の郡]
古の播磨を訪ねて~西脇市 編 その2
都麻(つま)・都太岐(つたき)
播磨国風土記には
「播磨国風土記には「播磨刀売(はりまとめ:播磨の国の神に仕える女性)と丹波刀売(たんばとめ)が、国の境を決めたとき、ハリマトメがこの村までやって来て、井戸の水を飲んで『この水味い:このみズウマい』と言いました。そこで、ツマといいます。」とあります。
ズウマ→ツマとなったものと考えられ、現在の西脇市津万(つま)から西脇市黒田庄町津万井(つまい)辺りのことと考えられています。
続いて、播磨国風土記ではこの後に「昔、讃岐日子(さぬきひこ:香川県の神)が氷上刀売(ひかみとめ:丹波国氷上郡の神に仕える女性)に求婚しました。
そのとき、ヒカミトメが『いやです。』と答えたのに対して、サヌキヒコはなおも強引に求婚しました。そこで、ヒカミトメは『どうして、私にそんなに無理やり求婚するのですか!』と怒り、建石命(たけいわしきのみこと:神前郡の神前山に鎮まります伊和大神の御子)を雇って、武器で戦いあいました。
その結果、サヌキヒコが負けて、四国へ帰って行きました。
『私は、甚だツタナキかな(力不足であったなあ)。』そこで、都太岐(つたき)といいます。」とあります。
ここも、ツタナキ→ツタキとなったものと考えられますが、比定地についてははっきりしていないようです。
後半の部分には、古代女性のたくましさ・気強さが描かれていると言われています。
あまりにもしつこい求婚に対して、強力な男神を雇ってしり退けてしまいました。
讃容郡(さよのこおり)の条の伊和大神とその妹の玉津日女命(=佐用津比売命)との国占め争いや揖保郡の出水(いづみ)の里の条の石龍比古命(いはたつひこのみこと)と妹の石龍比売命(いはたつひめのみこと)との灌漑用水争いなど、血を分けた兄妹でも凄まじい戦いがあったようです。
そして、いつも負けるのは男性(男神)の方なのです・・・・・。
[託賀(たか)の郡 都麻(つま)の里]
大津神社(津萬厄神)の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~加古川市・高砂市 編 その2
大国(おほくに)の里・伊保山
播磨国風土記には
「大国と名づけたわけは、農家が沢山あったからです。
この里に山があり、名を伊保山といいます。仲哀天皇(第14代)が亡くなられ、ご遺骸を神としておまつりするようになって、お后の神功皇后が石作連大来(いしつくりのむらじおほく)を連れてきて、陵墓を作るため、讃岐の国の羽若(はわか)の石を求めさせられました。
そこから播磨の国へお帰りになって、まだご葬儀の場所が定まらないとき、オホクが、その場所を見顕(みあらは:発見)しました。
そこで、美保(みほ)山といいます。
山の西に原野があり、その中に池がありますので、名を池の原といいます。」とあります。
この「大国」とは現在の加古川市西神吉町大国辺りから高砂市伊保辺りまでの範囲と比定されています。
播磨国風土記の印南(いなみ)の郡の最初に出てくるのがこの「大国の里」ですが、普通、この「大国」という里名にも、何らかの驚きを覚えてしまいます。
播磨国風土記には「土地の肥え具合は中の中・農家が沢山あるから大国」とだけ記されています。
加古川の扇状地が広がる河口に近い西側一帯には田園地帯が広がっていたものと思われます。
そして、沢山の農家があって、農作業に従事する人も多くいて、人びとは広い土地で、よい生活を送っていたものと思われ、領域的にも人口的にも産業的にも「大国」であったと考えられています。
次に「伊保山」ですが、上記風土記の本文からしますと、もともとは「ミホヤマ」で、それが訛って「イホヤマ」になったいうことになります。
現在明姫幹線沿いに、削られたその岩肌を荒ぶる神のごとく丸出しにして鎮まっています。
「伊保山」の南側一帯には、水田やレンコン畑が広がっていて、そこの地名が「伊保・伊保崎・伊保東」等々、風土記の地名を受け継いでいる町名がその他いくつか残っています。
前述の加古川市の「大国」をはじめ、これらの町名の由来を思うと、何かホッコリとした、不思議と落ち着いた気持ちになってきます。
さて、この「大国の里」の条の「池の原」の話に続いて記載されているのが、このシリーズ3回目に登場しましたかの有名な「石の宝殿」です。
[印南の郡 大国の里]
古の播磨を訪ねて~太子町 編 その2
大田(おおた)
播磨国風土記には
「昔、呉(くれ)の村主(すぐり:村の長)が韓国(からくに)から渡来して、紀伊の国 名草(なぐさ)の郡 大田の村(和歌山市太田)にやってきました。
その後、分かれて摂津の国 三嶋の加美(上)の郡 大田の村(大阪府茨木市太田)に移り住みました。
そこからまた、播磨の国 揖保の郡 大田の村に移住してきました。
この大田という地名は、元の紀伊の国の大田をもって名としたものです」とあります。
ここでいう「呉」は、中国の三国時代の魏・蜀・呉ではなく、江南地方から朝鮮半島南部に移住していた人びとの地域があったのではないかと考えられています。
そこにいた人びとが日本へ渡って来て、最初は今の和歌山市に住んでいました。
そこから分かれた人びとが、大阪府茨木市あたりに住むようになり,そして、その人たちが、今度は兵庫県太子町の太田に住むようになった、というわけですから、都合三回も転々と居住地を変えたことになります。
しかも、全て、同じ「大田」という地名を使ってのことです。
なお、現在太子町東出(とうで)128には、太子町立太田小学校が風土記の地名を今に引き継いで存在しています。また、現在この太子町太田の北西には、太子町作用岡(風土記には佐比岡と出ています)という地名があります。
ここには太子町立龍田小学校がありますが、その西側には、「平方(ひらかた)」という小字が残っています。
この小字名も、播磨国風土記では「枚方の里」の条に現在の大阪府枚方市辺りに住んでいた漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやって来て、初めてこの村に住んだから「枚方」という地名がついたというようなことも記載されています。
日本に渡来してからこの播磨の国へ移住してくるということは、諸般の事情があったのでしょうが、この地が気候もよく、土地も豊かで、農業・鉱業等も盛んであり、交通の便も良く、その他色々な面で居住地として適していたからと考えられているようです。
古よりこの播磨は素晴らしい土地であったということですね。
[揖保の郡 大田の里]
太田小学校の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~宍粟市 編 その2
御方(みかた)
播磨国風土記には
葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと)が天日槍命(あめのひぼこのみこと)と黒土の志爾嵩(しにだけ)に登って、それぞれ黒蔓(つづら)の三条(みかた)を、足に着けて投げました。
そのとき、葦原志許乎命のツヅラの一条(ひとかた)は但馬の気多の郡(豊岡市城崎町の南部)に落ち、もう一条は夜夫(やぶ)の郡(養父市養父町)に落ち、三つ目の一条はこの村に落ちました。
そこで、ここを三条(みかた)といいます。天日槍命のツヅラは、全て、但馬の国に落ちました。そこで、但馬の出石の土地を占拠することになりました。
ある人がいうには、伊和大神が形見(土地の占拠の標示)として、杖をこの村にお立てになりました。そこで、御形といいます。」とあります。
この場面は粒丘(いいぼおか)の国占めの争いから始まる葦原志許乎命と渡来人天日槍命との最後の一戦の場面です。
その途中の奪谷(うばいだに)の条では、土地争奪が激しいために谷の地形を変形させるほどのものであったとも記載されています。
古代における土地占め・国占めの凄さに驚いてしまいます。
また、上記の風土記本文の最後に出てきますように、葦原志許乎命はこの地を治め、去られるに当たり、その行在(あんざい:高貴な方の仮の住まい)の証に愛用の杖を形見として、その村に刺されました。
そこで、御形代・形見代ということで「御形」という名前がついたという説もあるとのことです。
さて、この「葦原志許乎命」をご祭神とする神社が、宍粟市一宮町森添に鎮まっています式内社「御形神社」です。
重厚な檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は、宍粟市で唯一国の重要文化財に指定されています。
本殿は、室町時代に創建されたもので、何回か塗り替えられているようですが、創建当時から朱塗りであったと伝わっている豪華絢爛なご社殿を拝見しますと、その昔、この地域がいかに豊かであって、葦原志許乎命と天日槍命が国占め争奪をしたことも納得がいくような気もしました。
[宍禾の郡 御方の里]
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古の播磨を訪ねて~たつの市 編 その2
立野(たちの)
播磨国風土記には
「昔、土師(はにし:埴輪や古墳の作製に携わった人)の
野見宿禰(のみのすくね)が、大和から出雲の国へ通う途中、
日下部野(くさかべの)に泊まりましたが、病気になって亡くなりました。
そのとき、出雲の人がやってきて、大勢の人を野に並べ立てて、
川の小石を手から手に運んで、墓の山を作りました。
そこで立野と名づけました。
また、その墓屋(陵墓)を名づけて、出雲の墓屋といいます。」
とあります。
ここに出てくる野見宿禰は、出雲出身の相撲の元祖と言われている人物で、
この「立野」は現在の「たつの市龍野町」に比定されています。
梅雨明けの真夏の昼下がりに、たつの市の龍野公園の西にある野見宿禰神社を訪ねました。
龍野神社の北のなだらかな石段を登って行くと野見宿禰神社の灯籠の前に着きました。
東屋もあり、小休止しながら眺めたここからの龍野平野の見晴らしはなかなかのものでした。
翻って灯籠のところから急峻な石の長い階段を見上げますと、それだけで汗が噴き出しそうになりました。
その階段をそれこそ汗だくだくになりながら登り詰めますと、
そこには「野見宿禰の墓」と言われている「出雲の墓屋」がありました。
一息ついてから改めて墓屋を見てみますと、一面草木で覆われていましたが、
墓屋の周りの囲いの石は直径30㎝前後の河原の石とわかる丸い石でした。
出雲からやって来た大勢の人々が、揖保川からの人海戦術で一生懸命石を運んでいる光景が浮かんできました。
この草木の下には、囲いよりも小さい目の、人々が手から手に運んだ石が
整然と山のように敷き詰めらているのであろうと想像しながら墓屋を一周しました。
野見宿禰の墓屋の立派な石の扉には、
出雲大社の宮司「千家」家の家紋である二重亀甲剣花菱紋が刻印されており、
出雲からそれこそ有力者をはじめ、多くの人々が此の地にやって来て、野見宿禰の死を悼み、
この「出雲の墓屋」を築いたのであろうと思うと、いつの間にか暑さも忘れてしまっていました。
野見宿禰神社の地図はこちら