古の播磨を訪ねて~西脇市 編
鈴堀山(すずほりやま)・伊夜(いや)丘
播磨国風土記には
「応神天皇が国内巡行で此の地においでなさったとき、此の山で鈴を落とされました。
お供の者が懸命に探したけれども見つからず、ついに土まで掘って探しました。
そこで、鈴堀山と言います。」
とあります。
当時は金属溶接技術のなかった時代であり、鈴は貴重品であるうえ、天皇の持ち物であったために、お供の者たちが、それこそ必死になって探している様子が浮かんできます。
現在も西脇市堀町(ほりちょう)には鈴堀山が存在します。
また、この「堀町」という町名は、鈴堀山を起源にしたものと言われ、山の前を流れる小川を鈴堀川と言います。
続いて播磨国風土記には
「応神天皇の猟犬で、麻奈志漏(まなしろ)という名前の犬が、猪を追ってこの丘を走り登りました。
天皇がご覧になって、『射よ!』とおっしゃいました。
そこでイヤ丘という名前がつきました。
そして、このマナシロは猪と闘って死んでしまい、墓を作って葬りました。
この丘の西に犬墓があります。」
と記載されています。
現在このイヤ丘の存在はわかりませんが、鈴堀山の西麓の犬墓の跡と伝わっている場所には、犬次(いぬつぐ)神社が鎮座しています。
地元の老翁の話によりますと、このお社は、神社本庁に登録してある神社ですが、この名前の神社は全国でここだけで、他の神社と比べて次の三点の特徴があるということです。
○神社であるにもかかわらず創建当時より鳥居がない。
○神社に対して、梵鐘が奉納されている。
○お産の神様として、本殿の裏側からも参拝できる。(砂受場の存在)
いずれにしましても、犬をお祭りし、そして、犬はお産の軽い動物であることから安産の神様・子宝の神様として、小さなお社であるにもかかわらず多くの人たちに親しまれているということです。
[託賀(たか)の郡 都麻(つま)の里]
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古の播磨を訪ねて~多可町 編
荒田(あらた)
播磨国風土記には
「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。
父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約7ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。
そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。
すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。
後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」
とあります。
播磨国風土記には、なぜ田が荒れてしまったかは記載されていません。
しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです。
現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があります。
また、隣の区の多可町加美区的場には見るからに荘厳な式内社 荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています。
したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます。
[託賀(たか)の郡 賀美(かみ)の里]
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古の播磨を訪ねて~加西市 編
玉野・根日女
播磨国風土記には
「兄のオケ(24代仁賢天皇)、弟のヲケ(23代顕宗天皇)お二人の皇子が、美囊(みなぎ)の郡志深(しじみ)の里にあった高野の宮にいらっしゃった時、国造許麻(くにのみやつここま)の娘、根日女命(ねひめのみこと)のもとに、山部少楯(やまべのをだて)を遣わして、求婚なさいました。
そこで、ネヒメはこの求婚をありがたくお受けしました。
しかし、お二人の皇子はお互いに姫を譲り合って、結婚なさらず、月日がたち、ネヒメは年老いて亡くなってしまいました。
お二人の皇子は大変悲しみ、すぐにヲダテを遣わして、
『朝日から夕日まで一日中日が当たる土地に墓を作って、姫を埋葬し、玉で墓を飾りなさい』
と命じました。
そこで、この墓を玉丘と、そしてこの村を玉野村と名づけました。」
とあります。
このお二人の皇子は、幼いころから皇位継承に絡んだ辛酸をなめていたからでしょうか、非常に仲が良く、いつもお互いに譲り合っていました。
志深の村の首長のイトミの家で歌を詠うことになった時も、また、天皇の位に就く時も互いに譲り合って、結局弟のヲケ皇子が先にしました。
ネヒメの時も双方が譲り合い、その間にネヒメは年老いて亡くなってしまいました。
この可憐な乙女は一生待たされ続けて終わった悲劇の主人公と言えます。
どんな気持ちで待ち続けたのでしょうか。
加西市を流れる万願寺川中流域右岸の玉野町辺りがこの地に比定され、墓は玉丘古墳公園として整備されている中の最大の前方後円墳がネヒメの墓と伝えられています。
[賀毛(かも)の郡 楢原の里]
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古の播磨を訪ねて~三木市 編
志深の石室
播磨国風土記には
「オケ(仁賢)、ヲケ(顕宗)両天皇が志深(しじみ)の里にいらっしゃったわけは、その父の市辺押磐皇子(いちべのおしはみこ:父は17代履中天皇)が近江の国で雄略天皇(21代)に殺されたとき、日下部連意美(くさかべむらじおみ)が、オケ、ヲケの皇子を連れて逃げてきて、この村の石室(三木市志染の窟屋)に匿いました。
クサカベムラジオミは自分が犯した罪の重いことを自ら悟り、自殺しました。
その後二人の皇子はあちらこちらと隠れ、結局、志深の村の首長の伊等尾(いとみ)の家に召し使われる身となりました。
あるとき、イトミが新築祝いをすることになって、二人の皇子に篝火をともさせ、祝い歌を詠わせました。
兄弟の皇子は互いに譲りあったあげく、弟のヲケ皇子が詠いました。
吉備の鉄で作った鍬を持ち
田を耕すように
手拍子をとって囃しなさい
私は舞いましょう
続いて詠って
近江は水のたまっている国
大和は周りを垣根のように青い山が取り囲む国
その大和で天下を治められたイチベの子孫です
下男の私たちは
これを聞いた人々は恐れ多いことだと、室内から走り出て、皇子の前にひざまづきました。
このとき、播磨の国にある大和朝廷の領地を治めるために派遣されていた山部連少楯(やまべのむらじをだて)が、歌を聞き、お顔をよく拝見して言いました。
『このお子様のために、母君の手白髪命(たしらがのみこと)は、昼は食事も召し上がらず、夜はお休みにもならず、死にそうな思いで泣いて、思いを馳せておられたお子様方です。』
と。そこで、ヲダテは朝廷に参上して上記のことを申し上げました。
すると、母君は喜び泣き、ヲダテを再び播磨に遣わし、二人の皇子をお召しになりました。
その後、皇子たちは志深の里に帰って、宮をこの土地に作ってお住まいになられました。」
とあります。
古代、政権争い・皇位継承争いに巻き込まれ、播磨の地に逃げ隠れ住んだと伝わるオケ・ヲケ皇子。
三木市志染町御坂の三木総合防災公園のある丘陵の志染小学校よりのところには、二人の皇子が隠れたと伝えられている石室が残っていて、
「史蹟 志染の石室 兵庫県」と刻された標柱が立っています。
石室の前には玉垣があり、その中に小さな社が建立されていて、現在は湧き水がたまっています。
側の説明版によると、この水は冬から春にかけての時期、ヒカリ藻という小さな藻によって水面が金色に輝くという不思議な現象をおこすことがあるそうです。
[美囊(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里]
志染の石室の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~福崎町 編
高岡の里 神前(かむさき)山・奈具佐(なぐさ)山
播磨国風土記には、
「伊和大神の御子である建石敷命(たけいはしきのみこと)が山崎の村の神前山にいらっしゃいます。
神がいらっしゃるので、神前の郡といいます。」
とあり、高岡の里には
「この里に高い岡があります。そこで高岡という名がつきました。」
と記されています。
また、この高岡の里に登場する地名は「神前山と奈具佐山」の二つだけですが、神前山はこの郡の冒頭部分にも登場しているように神前の郡のシンボルともいえる山です。
現在の神崎山の南麓には「建石敷命」を御祭神とする二之宮神社が鎮座しています。
一宮神社が「伊和大神」を御祭神とし、その御子をお祭りする所を二之宮神社ということから、この神崎山一帯は古より崇高な神域とされてきたようです。
一方、奈具佐山については、
「檜が生えている。地名の由来はわからない。」
と記されていますが、福崎町田口には「七種の滝」で有名な「七種山(なぐさやま)」と呼ばれている山があり、この山が奈具佐山にあたると言われています。
[神前の郡 高岡の里]
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古の播磨を訪ねて~たつの市 編
粒丘(いいぼおか)
播磨国風土記には
「粒丘という名前がついたわけは、天日鉾命(あめのひぼこのみこと)と葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)が領土争いをした際に、葦原志挙乎命がこの丘で食事をしたとき、口から粒(米粒)が落ちました。
そこで、この粒丘という名前がつきました。」
とあります。
この粒丘の比定地については諸説ありますが、たつの市揖保町中臣(なかじん)に延喜式名神大社・中臣印達(なかとみいだて)神社が鎮座しており、境内には「粒丘」と刻まれた石碑があります。
[揖保の郡 揖保の里]
中臣印達神社の地図はこちら
古の播磨を訪ねて~神河町 編
堲岡(はにおか)の里
播磨国風土記には
「大汝命(おおなむちのみこと)と小比古尼命(すくなひこねのみこと)の二柱の神様が、埴(赤土の粘土)の荷物を背負って歩いて行くのと、便意を我慢して歩くのとどちらが遠くまで行けるか、という我慢比べをしました。
何日か経って我慢しきれなくなったオオナムチノミコトがとうとうその場で大便をしてしまいました。
それを見て、スクナヒコネノミコトも、笑って自分も苦しかったことを告げ、埴を道端に投げ出しました。この埴が投げ出された岡を埴岡と、また、オオナムチノミコトの便が、笹の葉にはじかれて飛び散った場所を、波自賀(はじか)と言うようになりました。
投げ出された埴と便は固まって石に姿を変えました。」
とあります。
この里の話は、「古事記・日本書紀」の神話の世界とは全く異なったユーモラスな伝承です。
現在、神崎郡神河町比延(ひえ)に鎮座している日吉神社の辺りは、「埴岡の里」の伝承地といわれ、神社前の道脇には「播磨風土記 埴の里」の標柱が建立してあります。
そして、スクナヒコネノミコトが投げた埴から変わったと言われる大きな岩が社殿の裏山の中腹に注連縄をかけて祀られています。
[神前の郡 堲岡の里]
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古の播磨を訪ねて~佐用町 編
佐用の名前の由来 (佐用都比売神社)
播磨国風土記には
「伊和大神とその妹の玉津日女命(たまつひめのみこと)の二柱の神が、競争して国占めをなさったとき、タマツヒメノミコトは鹿を取り押さえ、その腹を裂いて稲種をまきました。
すると、一夜にして苗が生えたので、直ちにこれを取って、田に植えさせられました。
伊和大神は『お前は、五月夜(さよ)に植えたのだなあ。
夜に仕事をしてはいけないのに・・・・・』
とおっしゃって、他の土地へ去っていかれました。
そこで、五月夜(さよ)の郡という名がつき、妹神は賛用都比売命(さよつひめのみこと)という名前がつきました。
現在、佐用郡佐用町本位田(ほんいでん)には、サヨツヒメノミコトを御祭神とする式内社の佐用都比売神社が鎮座しており、
境内には、「播磨風土記・続日本後記 記載神社標」
という標柱が立っています。
[讃容の郡]
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古の播磨を訪ねて~高砂市 編
石の宝殿
播磨国風土記には
「原の中に池があるので池之原と言います。
この池之原の南に石造物があります。
その形は家のようで、幅二丈(約6m)奥行き一丈五尺(約4.5m)高さも同様です。
その名を大石と言います。
言い伝えによると、聖徳太子の御世に弓削大連(ゆげのおおむらじ)が作った石だということです。」
とあります。
これが、現在高砂市阿弥陀町に鎮座している生石(おうしこ)神社のご神体で、「石の宝殿」と呼ばれている謎の巨大石造物です。
この辺りの石は竜山石(たつやまいし)と呼ばれ、古代から石棺や石垣等によく使用されてきて、今も砕石は盛んです。
この巨石については、石棺を作る途中の段階のものと言う説もありますが、いつ、誰が、何の目的で作ったものであるかは、学術的には判然としていないようです。
[印南の郡 大国の里]
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古の播磨を訪ねて~加古川市 編
褶墓(ひれはか)
播磨国風土記には、
「景行天皇のお后であられた印南別嬢(いなみのわけいらつめ)がお亡くなりになったとき、墓を日岡に作り、その遺骸を担いで、印南川(今の加古川)の西岸から東岸へ渡ろうとしました。
すると、川下から大風が吹いてきて、遺骸は川の中に引きずりこまれてしまいました。
探しても見つからず、ただ、櫛を入れる箱と褶(ひれ:女性が首にかけ左右に長くたらした布で、ひらひら振ると魂を奮い立たせる力があると信じられていたといいます)だけが見つかりました。
そこで、この二つを墓に葬り、褶墓と名付けました。」
とあります。
現在、日岡神社の東側に宮内庁管轄の日岡陵として存在していて、昭和45年頃までは、御陵護衛の小屋もあって、護衛官もいたそうです。
陵墓に登る途中では、梢の間からとうとうと流れる加古川を見渡すことができ、小鳥のさえずりを聞きながら風土記の時代にタイムスリップした気持ちになります。
[賀古の郡]
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