古の播磨を訪ねて~明石市編 その3
瑞應寺
今回は3月上旬の土曜日の春雨の日に明石市の「瑞應寺」を訪問しました。
加古川バイパスを東へ走り、明石西で下り、右折して南へ。「山口の西」の信号を左折して、明姫幹線に入り、「明姫東二見」の信号を南に下って、道なりに東二見のまちなみを見ながら「瑞應寺」へ。
その寺院は東二見の町中にドッシリと納まっていました。この「瑞應寺」は、山号は「東海山」と言い、臨済宗妙心寺派の寺院で、地元では「大寺(おおでら)」の愛称で呼ばれて、地域の人々に親しまれているお寺です。
御住職の話では「元々、東二見全域が檀家で、村の菩提寺となっていたので、『親寺』とも呼ばれていた」そうです。
創建は加古川市の「鶴林寺」とほぼ同年代とされていますが、詳細についてははっきりせず、その後、天正元年(1573)に東二見村の菩提寺として再建されたそうです。
江戸時代には寺子屋としての役目も果たし、その関係から明治5年(1872)に開校された二見(当時は双見)小学校は、この寺院の御本堂を教室として、明治13年(1880)まで活用されていたそうです。
また、この寺院には、昭和47年(1972)2月に明石市指定となった天然記念物の「ソテツ」があります。
御住職の話によると、「雌株で、震災以前は、背の高い約5mの主幹を中心に12株の枝を広げており、その姿は、見るからに美しいものでした。しかし、震災の影響で樹勢も弱まってしまいました。」ということでした。
ここのソテツは、「瑞應寺」が天正元年に再建された頃よりあったものと推察されており、樹齢は400年を超えているようです。早く、元の勢いに戻って欲しいと願わずにはいられませんでした。
また、この辺りは、明石市都市計画課が平成18年11月に市民に広く募集を行った「わがまちあかし景観50選」にも選出されています。
この「瑞應寺」を中心として、近隣には増本邸や尾上邸の都市景観形成重要建築物が点在し、二見港にも近く、潮の香りのする東二見の落ち着いたまちなみを今に残しており、雨ながらも春を予感させる情緒ある東二見巡りでした。
古の播磨を訪ねて~上郡町編 その3
法雲寺のビャクシン
2月下旬の雨の日、上郡町を訪ねました。ここ上郡町には兵庫県指定の天然記念物「法雲寺のビャクシン」があります。国道2号線の「有年原」の信号を右折して、国道373号線に入り、千種川沿いに北へ。上郡町苔縄に入り、智頭急行智頭線の苔縄駅の向こうには、雨にけむる目指す法雲寺の甍が見えてきました。千種川に架かる金華橋を西岸へ渡ると、すぐ右手の山の中腹にその寺院はありました。
この法雲寺の山号は金華山。臨済宗相国派の禅寺で、御本尊は釈迦如来です。 この寺院は、南北朝時代の建武年間(1334-1338)に上郡の英雄赤松則村(円心)を開基とし、元(中国)の朝廷から「宝覚真空禅師」の号をいただいた「雪村友梅(せっそんゆうばい)」を開山に際して京都栂尾(とがのお)より招請して創建されたと伝えられる赤松氏の菩提寺です。
さて、今回の訪問目的のビャクシンは、赤松円心がこの法雲寺を創始したときに植えたと伝わるもので、昭和52年(1977)3月、兵庫県指定天然記念物に選定されています。寺の説明板によると、樹齢約700年・幹周9.83m・根周り14.3m・高さ35m・枝の広がりは南北22m・東西23.5mで、日本最大のビャクシンと言われているようです。雨でしたが、実際にその下に入ると当然傘は必要なく、見上げると同時に、その大きさには圧倒され、筆舌に尽くしがたいほどのものでした。長い間、風雪にさらされながらも、赤松氏の栄枯盛衰をじっと見続け、まだまだかくしゃくとしているその雄姿には、思わず手を合わさずにはいられませんでした。
自分の知りうる大木の中でも1・2を争うもので、読者の皆さんにも是非一度訪問していただきたいと思いながら、雨の中はるばる上郡まで訪ねた甲斐があったと、それこそ心洗われて帰路に着きました。
法雲寺の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~稲美町編 その3
円光寺
今回は2月上旬の冬将軍が強く張り出した日に稲美町中村14の「円光寺」を訪ねました。加古川バイパス明石西ICを降りて左折。天満大池の信号をさらに左折して県道384号線に入り、1㎞ほど進んだ「国安南」の信号まで来ると、はるか左前方にその甍が見え、次の「森安」の信号では、それとハッキリわかりました。この風土記紀行の仕事をはじめて、播磨各地の訪問のたびに思うことですが、カーナビは本当にありがたい。
諸説がありますが、この「円光寺」は、一般には聖武天皇の御世・天宝2年(743)に行基が開いたと伝えられている真言宗の古刹。当初「稲美町国安」の「天満神社」境内に建立されていたようですが、神仏分離により、現在の地に移転されたそうです。
さて、山門をくぐると、境内の右側から樹齢400年近い稲美町の天然記念物『カイヅカイブキ』が、仁王さん代わりに出迎えてくれました。この「円光寺」は平成21年5月に、本堂・山門・客殿は新築され、庫裏は修復されています。境内の庭もきれいに掃き清められ、松・イブキ・槇等の植木も丁寧に剪定されていて、落ち葉一枚ありませんでした。そういう中で、御本堂はどっしりと重量感漂うものがありました。
また、隣の墓地には、高さ1m弱の稲美町指定文化財の『五輪塔』があり、そばの稲美町教育委員会の説明板に、「地輪の右方に応仁2年(1468)の銘がある」と記されていましたが、風化が激しく、読み取ることは出きませんでした。残念!
帰りに県道から改めて寺院を眺め、山門を中心にして、左右に鳥が翼を開いたが如く伸びた瓦葺の白漆喰の白壁に囲まれた堂々たる御本堂の姿から、この村の豊かさを感じました。「円光寺」は冬枯れの田園の中で北風にも負けず、威風堂々と中村の村を守り続けている感じを受け、帰路に着きました。
古の播磨を訪ねて~相生市編 その3
万葉の岬
1月下旬に相生市の「万葉の岬」を訪問しました。浜国道をひたすら西へ西へと進み、たつの市御津町岩見を越えると「室の七曲り」として有名な屈曲した美しい海岸を左に見て、室津へ。室津港へ降りる一番高台の所で車を止めて小休止。室津の町並みや船の港への出入りの様子、そしてこのシリーズに登場した「室の明神さん」として有名な「賀茂神社」の森の右手向こうには、播磨国風土記にも記載されている三つの「唐荷島」。ノスタルジックな気分に浸った後、大浦海岸を越えて一般に「室の浦」と呼ばれている海岸線を進んで相生市へ。相生市に入ってすぐ左の山が「金ヶ崎」で、この南の先端が「万葉の岬」と呼ばれている今回の目的地です。
浜国道から「万葉の岬」まで、1キロ余りにわたって桜並木が続き、車を降りると、すぐに「西播磨 花の里 万葉の岬 つばき園・桜の回廊」という小さい看板が目に入ってきました。ここには、約40種、200本余りの椿が植樹されており、毎年3月には「つばきまつり」が開催され、潮風に揺られながらいい香りを放って咲き誇る椿を堪能することが出来るようです。今回は、まだポツポツと咲いているだけで、椿の甘い香りに酔うことはできませんでした。残念!
この「万葉の岬」の名前の由来は、『万葉集巻十二』に詠み人知らずとして出てくる金ヶ崎の潮の流れの速いことを詠んだ『室の浦の 瀬戸の崎なる 鳴島(なきしま)の 磯越す波に 濡れにけるかも(室の浦の潮流が速い海峡にある鳴島[金ヶ崎のすぐ南にある現在君島と呼ばれている島]の磯を越す波に濡れてしまったことよ)』の歌に由るようです。「つばき園」には、万葉集研究の大家、故犬飼孝先生直筆のこの歌の石碑が建立されています。
当日は、生憎雲の多い天候でしたが、このつばき園の一番高台の展望台からは、東は明石海峡、淡路島、すぐ手前には家島諸島、坊勢島の遥か向こうには鳴門海峡や四国の山々、少し西に小豆島、その右手には牛窓の島々、まさにオーシャンビューの大パノラマの世界を楽しむことができ、浜風がほほを伝い、気分爽快になりました。
次回は、桜の時期に是非ここを訪ね、潮風に舞い散る花吹雪の花回廊を歩きたいものだと思いながら帰路に着きました。
万葉の岬の地図はこちら↓
http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E4%B8%87%E8%91%89%E3%81%AE%E5%B2%AC&lon=134.46806621&lat=34.80360011&ei=utf-8&z=13&fa=as&fit=true&ac=28208
古の播磨を訪ねて~播磨町編 その3
大中遺跡
1月中旬の土曜日に播磨町の国の史跡地「大中遺跡」を訪ねました。先ず、播磨町郷土資料館を目指し、兵庫県立考古博物館の少し西の建築物がそれで、これらの建物も「大中遺跡」地内に建てられています。郷土資料館の南には別府鉄道(昭和59年=1984年廃線)のディーゼル機関車と客車が展示されていて、丁度ペンキの塗り替え中でした。郷土資料館のすぐ北の遊歩道が、かつての別府鉄道の線路跡と、学芸員さんが教えてくれました。
さて、この「大中遺跡」は、昭和37年(1962)に、当時播磨中学校3年生だった3人が発見したものです。その発見場所は、播磨町大中の「大増畑(おおぞばたけ)」と呼ばれていた畑の中だそうです。この3人は、常日頃から考古学を熱心に学んでいて、土地の古老から「大正年間に、別府鉄道施設工事をしたとき、この畑地から多くのタコツボのような物が掘り出された」ということを聞き、この畑を発掘したところ、沢山の土器片が出土し、このことが大中遺跡発見のきっかけとなったとのことです。
この大中遺跡は弥生時代後期(今から約1900年前)の代表的な遺跡で、長さ約500m、幅約180mで、広さは約70,000㎡もあるようです。今までに、全体の約20%の面積の調査が終了しており、円形・方形・長方形・五角形・六角形など73棟の竪穴住居跡が見つかっています。この調査結果から考えて、遺跡内にはおおよそ250棟もの住居が建てられていたものと推測され、大いに驚きました。
古代国家が形成されようとする日本の黎明期において、その遺跡規模や出土品から、この地は、播磨ではかなり有力なムラであったと考えられます。そして、現在は大小10棟近くの住居が復元されています。その中を覗いてみて、当時の人びとの寝食をはじめとする普段の生活はどうであったのだろうかと、またまた古代に思いを馳せ、色々と想像を巡らして、ロマンに浸っている間に、太陽は大きく西に傾いていました。
大中遺跡の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~太子町編 その3
言挙阜(ことあげおか)・鼓山(つづみやま)
播磨国風土記には、「言挙阜というわけは、神宮皇后が朝鮮半島から帰ってこられ、難波で皇后に敵対する者たちに軍兵を向けられる日、この阜で、軍兵に『この軍隊は、戦いをすると決して言挙げ(口に出す)してはならない』と訓令を出されました。そこで名づけて、言挙前(ことあげさき)といいます。
鼓山 昔、額田部連伊勢(ぬかたべのむらじいせ)と神人腹太文(みわひとはらのおほふみ)がこの地で互いに争ったとき、鼓を打ち鳴らして戦いました。そこで、名づけて鼓山といいます。」とあります。
今日は大寒。今回は、太子町を訪ねました。現在、太子町には「黒岡」という地名があります。一般的には播磨国風土記に出てくる「コトアゲ」が訛って「クロオカ」になったと考えられています。この「黒岡」地区の西北の隅には神功皇后・仲哀天皇をご祭神とする「八幡神社」が鎮まっていて、その北西約200mには「黒岡神社」が鎮座しています。また、現在、太子町「原(はら)」の県営天満山住宅のすぐ北西に「黒岡山」という小字が残っており、今は平地で住宅街になっていますが播磨国風土記の時代には、この辺りに小高い丘があって、ここから今の黒岡神社の丘陵辺りを、コトアゲオカと呼んでいたのではないかと考えられています。
次に、この「原」は播磨国風土記の「ハラノオホフミ」の名残と考えられています。現在の「原」集落の東の端には「鼓原(つづみはら)大歳神社」が鎮座しています。「原」集落の地元の方の話では、「原大池(福井大池、天満大池とも言われています)の北部を埋め立てて現在は住宅街になっているが、その辺り一帯を『鼓ケ原(つづみがはら)』と呼んでいたが、この小字名は、地元住民でも、若い人はあまり知らないだろう」ということでした。
いずれにしましても、今回の太子町探訪も、紆余曲折はあるものの、播磨国風土記の記載を今に伝えているように思い、真冬の北風吹きすさむ「原」地区の寒々とした冬枯れの田の中で、古代人も見たであろう南に連なる美しい京見山の連山を見ながら、春を待ち遠しく思いました。
(揖保の郡 大田の里)
黒岡神社の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~赤穂市編 その3
大避神社(おおさけじんじゃ)
このシリーズで、何回も触れていますように、現存している播磨国風土記には「赤穂の郡」の記載はありません。そこで、今回も播磨国風土記を離れた赤穂市散策紀行文になりました。今回は、新年1月4日に、初詣を兼ねて赤穂市坂越の「大避神社」を訪問させていただきました。
日曜日のため、初詣客で混雑しているのではないかと心配していましたが、正月三が日が過ぎ、参拝客はまばらでした。車は海岸の駐車場に止めて、参道に入りました。すぐに立派な鳥居があり、しばらく進むと、右手に「懸社 大避神社」と刻印されたこれまた圧倒されるほどの標柱が建立されていました。その先の石段を登って行くと神仏習合時代の名残の隋神門が建っており境内へ。拝殿は一階唐破風、二階千鳥破風の豪華な建造物で、その拝殿の両翼には絵馬堂が長く延びている珍しい造りで、本殿は、明和6年(1769)再建の入母屋造の建築物でした。ここの絵馬堂には、船渡御のときに使用する和船(兵庫県指定有形民俗文化財)が保存されていました。
この「大避神社」の毎年10月の第2日曜日に斎行される船祭りは、ご祭神の秦河勝(はたのかわかつ:聖徳太子の信頼が非常に厚かった人物)が、坂越に来た伝承を再現する祭りとして始まったと伝えられています。それは、大阪天満宮の天神祭り、安芸の厳島神社の管絃祭とともに、瀬戸内海三大船祭の1つとして広く知られており、平成24年3月には国の重要無形民俗文化財に指定されています。
また、ここ坂越湾に浮かぶ小島は、秦河勝が生きて着いた島であることから「生島(いきしま)」と呼ばれており、原始林に覆われた島は、神域地として崇められ、樹木を伐採することは勿論、島に上陸することすら禁止されている聖域で、国の天然記念物に指定されています。
一方、この生島を望む坂越地区の伝統的建造物群による古い町並みは、平成9年(1997)に全国都市景観大賞を受賞し、その昔、廻船業や漁業で栄えた港町の情緒あふれる町並みを今に残しています。正月早々この美しい町並みを散策して、今年も何かいいことがありそうな気がした坂越巡りでした。
大避神社の地図はこちら↓
古の播磨を訪ねて~高砂市編 その3
ナビツマ
古の播磨を訪ねて~神河町編 その3
旧福本藩池田家陣屋庭園
古の播磨を訪ねて~市川町編 その3
岩戸神社
さて、その岩戸神社ですが、樹齢数百年という杉・桧・栢(かや)がうっそうと茂っていました。参道やその両側の玉垣は苔むしていて、お社の南半分を囲むように流れている岡部川の支流の岩戸川は、清流以外の言葉は当てはまらないような渓流で、辺り一帯はひんやりとした空気が漂っていました。本殿後ろには、高さ・幅共にそれぞれ10数メートルもあるかと思われる大きな岩が迫っており、また、本殿南西方向の岩戸川の側にも苔むした屏風のような大岩が立っています。周囲の老木と合致し、せせらぎだけが聞こえてくる神秘的で静閑そのものでした。
次に、本殿の装飾彫刻ですが、これまた素晴らしいもので、巧妙精緻な力作は、市川町の文化財に指定されています。聞くところによりますと、この彫刻師は今の丹波市氷上町の出身で、日光東照宮の彫刻の流れを汲む彫刻師のようです。
この岩戸神社にはクマガイソウやエビネその他20種類ほどの山野草を集めた花園があります。なかでも6月中旬に咲く九輪草の群落は素晴らしいもののようです。今回訪ねたときは、多くの野草の茎・葉はほとんど枯れていましたが、来年は、是非その美しい花の時期に訪れたいと思いながら、岩戸神社をあとにしました。