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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~三木市編 その5

古の播磨を訪ねて~三木市編 その5

枚野(ひらの)の里・高野(たかの)の里

 

 播磨国風土記には、両里とも「地形によって里の名としました。」とだけ記されています。現存する播磨国風土記の最後に記載されている二つの里名です。今回は薫風爽やかな5月上旬に三木市を訪問しました。
 
 「枚(ひら)」は「平」ということで、「枚野とは、平らな野が広がっている処」と解釈できます。とすると、「枚野の里」は現在の美襄(みの)川流域で三木市の平田・久留美・平井辺りの平野部を示し、それに対し、「高野の里」はその南側一帯の別所町花尻・東這田・小林辺りの丘陵地を指しているものと考えられます。
 
 ただ、播磨国風土記を紐解けば分かるのですが、美襄(みなぎ)の郡の部立ては「志深(しじみ)の里・高野の里・志深の里・吉川(えがわ)の里・枚野の里・高野の里」となっていて、「志深の里」と「高野の里」は2回出てきます。今回取り上げた「高野の里」は後の里名の方ですが、何故、この二つの里についてそれぞれ2回に分けて記してあるのかは、はっきりしません。本来は一緒に記述すべきところだったのを、何らかの手違いでそうなったのかもしれません。
 
 さて、この三木市久留美には、大化4年(648)、法道仙人の開基と伝わる「祝融山慈眼寺(しゅくゆうざんじげんじ)」があります。この寺院は長い歴史の中で、一時荒廃したこともあったようですが、南北朝時代に播磨の守護・赤松円心によって再興されました。境内には延慶2年(1309)の銘のある梵鐘があり、この鐘は、羽柴秀吉の三木攻めの時に、陣鐘に使用されたと伝わっています。また、三木市内最古の梵鐘として、昭和36年(1961)兵庫県の重要文化財に指定されています。
 
 境内には、当時のご住職が、明治初年に東京両国の回向(えこう)院から分墓した鼠小僧次郎吉の墓が祀られています。その分墓の明確な理由・目的等は伝わっていないようですが、悪徳大名や武家屋敷にのみ忍び込み、千両箱を盗んで長屋にばら撒いたという伝説の義賊。常に懐の寂しい私のもとにもと、願ってお参りしました。 (美襄の郡) 

古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その5

古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その5

 敷草(しきくさ)の村

 

播磨国風土記には、「敷草の村 草を敷いて神の御座としました。だから、敷草と言います。この村に山があります。南方に離れること十里(約5㎞)ほどのところに沢があります。周りが2町(約200m)です。この沢に菅(すげ)が生えています。笠を作るのに最も適した菅です。檜・杉・栗・黄蓮・黒葛などが生えています。鉄(まがね)を産します。狼・熊が棲んでいます。」とあります。

 

ここに出てくる「しきくさ」がなまって「ちぐさ」となったと言われ、現在の千種町千種が推定地と考えられています。また、「山」は兵庫県第2位の高さの「三室山」が比定地とされています。このほか、笠をつくるのに非常に適した「すげ」が生えているとの記載もあります。元日本地名研究所長の故長谷川健一氏は、播磨学研究所編『播磨国風土記』の中で、「この『すげ』が単に植物の『菅』だけでなく金属をも表しており、これを受けて、この条の末尾には『鉄を産す』との記載がある」と記しておられます。

 

今回は五月半ばの宍粟の「山笑う」新緑の頃に千種町西河内の天児屋鉄山跡を訪ねました。ここは、上記のように古代より砂鉄を産し、その砂鉄は「カンナ流し」という手法で採取され、「千種鉄」として高い品質を誇りました。中世以降は、備前の刀匠たちに珍重され、数々の名刀を残しています。

 

昭和59年からの調査により、地下4m近く掘り込まれ、入念に排水、防湿工事が施されていた跡など、炉の地下構造が明らかになりました。先人が築いた「たたら製鉄」の足跡を後世に伝えるべく、平成94月「天児屋たたら公園」としてオープンし、平成1449日には兵庫県の史跡地に指定されました。

    

また、ここ千種高原は「クリンソウ」が有名で、その群生地は、砂鉄を取った後の「真砂土」が溜まるカンナ池辺りを中心に約15ha。そのえも言われぬ群生の美しさは必見です。カンナ池跡は「湿地を好み、暑さに弱く、寒さに強い」クリンソウの生育に最適であったようです。古代から連綿と続いてきた千種鉄の「たたら遺跡」が、大自然の営みと相まり、現在にいたってクリンソウに最良の生育環境となった偶然に、ただただ驚嘆するばかりでした。辺り一面を薄紫色に染めるクリンソウを目の当たりにして、現代の私たちがこの環境を後世に守り伝えていく義務のようなものを感ぜずにはおられませんでした。(宍禾の郡柏野の里)

古の播磨を訪ねて~加西市・加東市編 その5

古の播磨を訪ねて~加西市・加東市編 その5

 雲潤(うるみ)の里

  

 播磨国風土記には、「土地は中の中です。うるみという名がついたのは、丹津日子(につひこ)の神が『法太(ほうだ)の川の下流を、山を越して、うるみの方に流したいと思う』と、そう言った時に、うるみの村にいらっしゃった太水(おほみず)の神が、断っておっしゃいました。『私は鹿・猪などの血で田を耕作します。だから、川の水はいりません』と。そのとき、丹津日子がおっしゃったことには、『この神は、水路を掘ることにウミて(いやになって)こう言っているだけです』そこで、雲弥(うみ)という名がつきました。今の人は雲潤(ウルミ)という名で呼びます。」とあります。

 

 ここに出てくる「うるみ」がなまって現在の「うに」になったと考えられています。現在、加西市には宇仁(うに)地区があり、そこには、加西市立宇仁小学校があります。この宇仁小学校の校歌の一番に「文にもしるき宇仁の地」とあり、校長先生におうかがいしますと、この「文」は播磨国風土記と児童には説明しているとのことでした。風土記の「ウルミ」は長い歴史の中で、言葉は変わっても、今も頑張っています。また、この「雲潤の里」は、現在一般的には、加西市東北部の宇仁地区から加東市滝野北西部の上滝野辺りが比定地とされています。

 

 播磨国風土記には、現在の加東市に関係する里として、今までに取り上げた「端鹿の里・穂積の里・起勢の里」と今回の「雲潤の里」の四里の記述があります。

 

 加東市のこの「雲潤の里」の広がりを確認すべく古刹「五峯山光明寺(ごぶさんこうみょうじ)」を訪ねました。播磨中央公園のすぐそばにある光明寺は、海抜約260mの五峯山の頂上にあり、「播磨高野」と呼ばれ、真言75名刹の一寺に数えられています。また、新緑と紅葉の名所で「ひょうご森林浴場50選」に選定されており、春は、桜の花見客でにぎわい、秋は紅葉の名所で、境内の静けさと木々の紅葉とが、秋の深まりを感じさせる隠れたパワースポットのようです。

 

 光明寺の本堂・文殊堂・常行堂等、塔頭の遍照院・大慈院等を拝観した後、見はらし台に登ると遥か彼方には明石海峡大橋の鉄塔をも望むことができました。そして、眼下には加古川を中心にした加東市・加西市の町並みを見ることができ、見はらし台からの大パノラマのその感動は、今も古代も変わらない豊穣の地播磨そのもののような気がしました。      (賀毛の郡)

古の播磨を訪ねて~太子町編 その5

古の播磨を訪ねて~太子町編 その5

 枚方(ひらかた)の里

 

 播磨国風土記には「土地は中の上です。枚方と名づけたわけは、河内国茨田(まむた)郡枚方の里の漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやってきて、初めてこの村に住みました。そこで枚方の里といいます。

 佐比(さひ)佐比と名がついたわけは、出雲の大神が神尾山にいて、出雲の国の人がここを通るとき、10人の内5人、5人の内3人を遮断しました。そこで出雲の国の人々が、佐比(サヒ:鍬などの農具)を作って、この神を祀ったのですが鎮まりません。その理由は、比古(男)神が先に来て、比売(女)神が後から来ましたが、男神は、鎮座できずに去って行きました。このため、女神が恨んで怒っているのです。その後、河内国茨田郡枚方の里の漢人が来て、この山の麓に住んで、女神を敬い祀ったので、神の怒りが鎮まり、この神がいたことから名を神尾山といいます。また、佐比を作ってこの神を祀った所を佐比岡と名づけました。」とあります。

 

 この条に出てくる「佐比岡」は現在の太子町佐用岡(さよおか)、「枚方」は佐用岡の小字の平方と考えられ、風土記の地名は今も頑張っています。また、「神尾山」は現在の笹山、「比古神」「比売神」が鎮まっていた所は、笹山にある男明神、女明神と呼ばれている所が比定地と伝わっています。

 

 3月下旬のよく晴れた日に、太子町を訪ねました。先ず、笹山の東側を、男明神を目指して登りました。山道はかなり整備されていましたが、普段から運動不足の筆者にとっては大変なものでした。枯れ枝を杖にして、ゆっくり歩いて約20分、男明神に到着。当日は、天気が良すぎて、残念ながら少し霞んでいましたが、それでも、遥か南には家島諸島を望むことができ、眼下には風土記の「枚方の里」が広がっていました。次に、尾根伝いに女明神を目指しました。標識には0.91㎞とありました。途中、シイの木から吊るされた一本綱のブランコがあり、小休止がてら童心に戻って楽しみました。そして、女明神に到着。ここからは、風土記の「枚方の里」とたつの市街地の眺めを楽しむことができました。男明神・女明神ともに岩肌がむき出しになっていて、いかにも神が宿りそうな雰囲気の岩でした。

 

 帰りに立ち寄った平方公民館では、ご近所の方に播磨国風土記では『ひらかたの里の中にさよ岡』があるが、それが長い歴史の中で、現在のように『さよ岡の小字がひらかた』となったことなど、地名の由来について色々とお話することもでき、有意義な太子町巡りの締めくくりとなりました。          (揖保の郡)

古の播磨を訪ねて~佐用町編 その5

古の播磨を訪ねて~佐用町編 その5

柏原(かしはばら)の里

 

播磨国風土記には「柏の木が沢山生えているので、土地に名をつけました。

筌戸(うえと) 伊和の大神が、出雲から来られたとき、嶋村の岡を腰掛としてお座りになって、筌(うへ:竹で作った魚をとらえる器)をこの川に仕掛けられました。だから、筌戸という名がつきました。ところが、この筌には魚が入らないで、鹿が入りました。大神がこれを捕まえてナマスにして召し上がられたところ、口に入らないで地に落ちてしまいました。そこで、ここを去って他の所へお移りになりました。」とあります。

 

この柏原の里は、旧南光町の下徳久・西徳久・東徳久が比定地と考えられています。次に、嶋村は、川と川に挟まれて、嶋のようになっている地域、所謂、千種川と志文(しぶみ)川に挟まれている現在の米田地区、さらに筌戸は東徳久の小字の殿崎と考えられています。また、その筌を仕掛けた川は、場所的に考えて、現在の千種川が比定地とされ、当時から、千種川には沢山の魚がいたと考えられます。

 

この条で以前から問題視されているのが、魚を取る器である筌に鹿が入ることはあり得ないであろうということですが、本文中に「嶋村の岡を腰掛として」とあるように、この条は巨人伝承であるので大型の筌と解することで理解できると思います。

 

今回は、旧佐用郡南光町まで来たので、神亀5年(728)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開山した「船越山南光坊瑠璃寺」を訪ねました。旧南光町の町名の由来はこの「南光坊」にあります。本堂・金堂・薬師堂をはじめ、12の坊があり、開山以来1300年の長きにわたり、高野山真言宗の名刹であり、「西の高野山」として親しまれています。本堂の鐘は、兵庫県の重要文化財に指定されていて、この鐘には、赤松円心の末弟である覚祐が願主となり、応安2年(1369)に赤松一族が寄進したことが刻まれています。          

 

ご本堂に続く苔むした階段を少し汗ばみながら上っていたとき、涼しい一陣の風が吹いてきて、思わず「薫風自南来」という北宋の詩人蘇東坡の詩の一節が頭に浮かんできました。もう五月がそこまで来ていることを実感し、爽やかな気分になった旧南光町訪問でした。              (讃容の郡)

古の播磨を訪ねて~加古川市編 その5

古の播磨を訪ねて~加古川市編  その5
松原御井

松原御井(まつばらのみい) 

 播磨国風土記には、印南別嬢(いなみのわけいらつめ)が亡くなられた後の条に、「このとき、景行天皇は別嬢を慕い悲しみ、『この川の物はこれからは絶対に食べないようにしよう』と誓われました。だから、加古川の鮎は、天皇の食べ物として献上されることはありません。その後、天皇は病気になられ、『よい薬が欲しい』とおっしゃられました。そこで、宮を思い出の賀古の松原に造って都から移られました。ある人が、ここに清水を掘り出しました。それで松原の御井といいます。」とあります。 

 播磨国風土記を紐解くと「井戸」に関する記述は沢山出てきます。このシリーズでも26回「託賀郡・都麻の里」や29回「賀毛郡・修布の里」、35回「賀毛郡・穂積の里」、74回「讃容郡・邑宝の里」等で取り上げましたが、まだまだあります。 

 この「松原御井」は、現在加古川市尾上町養田の工場街の西端にある小さな公園の中の井戸が比定地とされています。加古川のすぐ東を流れる「泊川」の遊歩道整備に伴い設けられた東屋があり、その中に憩いの場のように再現されています。「松原御井」という石碑も建立されており、また、設置してある説明板によると、本来の場所は加古川と泊川との中洲あたりにあったということです。そして、近くの神社のお祭り用の水として長い間使用されていたようですが、残念ですが、今は涸(か)れ井戸となって、砂利石が敷いてありました。加古川のすぐ傍ですから数mも掘れば水が滔々と湧き出るのではないかとも思いましたが、人気の少ない処ですので、安全面からも現在の状態の方が良いのかなとも考えました。

 ぐるっと回って加古川の河川敷に腰を下ろし、温かい缶コーヒーを飲みながら目の前を流れる大河加古川をぼんやりと眺め、播磨国風土記の時代では、加古川はかなり蛇行して流れていたようなので、この辺りは右岸(西側)であったのであろうな?と想像しました。さらに、上記の播磨国風土記の条にも登場して、このシリーズ2回目に取り上げた「褶墓(ひれはか)」の主人公「印南別嬢」のことが思い出されました。都にまでその名前が轟き、景行天皇がめとる為にこの播磨の地まで来られたという女性とはどのような女性であったのだろうか?そして、その王子で、日本古代史上の伝説的英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」は?。と、思いは止め処もなく広がっていきました。         (賀古の郡)

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その5

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その5
香山(かぐやま)の里

播磨国風土記には、「元の名は鹿来墓(かぐはか)です。土地は下の上です。
鹿来墓と名づけるわけは、伊和の大神が国占めをなさったとき、鹿が出てきて山の峰に立ちました。山の峰もまた墓に似ていました。そこで鹿来墓と名づけました。後に、天智天皇の御世に、道守臣(みもりのおみ)が播磨国司になったとき
に、名を改めて香山としました。
家内谷(やぬちだに)  これは香山の谷です。形が垣根をめぐらしているようになっています。そこで家内谷という名がつきました。」とあります。

揖保川の土手の土筆も芽を吹きだした3月初めに、たつの市新宮町を訪ねました。風土記によれば天智天皇の御世に、「カグハカ」から「カグヤマ」に地名が変わったというのです。このことについて、少し難しくなりますが、万葉集には「香具山・畝傍山・耳成山の大和三山」の争いの説話を詠った天智天皇の有名な歌があります。また、「播磨国風土記 揖保の郡 上岡の里」の条には、出雲の国の「阿菩(あぼ)の大神」が、その大和三山の争いを止めようとお思いになって、「上岡の里」(現在のたつの市神岡町)まで来られた時に、争いは収まったと記載されています。この「大和三山に関する天智天皇の歌と揖保の郡の言い伝え」をもとにして、天智天皇の御世に、大和三山の一つの「香具山」にちなんで、揖保の郡の「カグハカ」を「カグヤマ」と名前を変えたのではないかと言われており、現在のたつの市新宮町の「香山(こうやま)」が比定地とされています。

次に「家内谷(やぬちだに)」ですが、これは一般的には新宮町香山にある小字の「家氏(いよじ)」が比定地とされています。この「家氏(いよじ)」地区には「家氏(いえうじ)」という姓の家が現在3軒あります。「家内(やぬち)」→「いえうち」→「いえうじ」→「いよじ」と変化していったと考えられ、ここ新宮町でも播磨国風土記は健在でした。

さて、その家氏(いよじ)には、「皇祖神社」が鎮座しています。このお社の阿形の狛犬は、瓦製で、全国的にも非常に稀なものです。高さ37㎝で台座に彫られている銘文から、明徳元年(1390)に橘友重(たちばなともしげ)が制作したものと判明しています。橘氏は大和で活躍した瓦職人で、橘氏の作品としては播磨最古のものと言われ、兵庫県の重要文化財に指定されています。その他、狛犬のレプリカ等が境内のガラスケースに保管されています。    (揖保の郡)

古の播磨を訪ねて~西脇市編 その5

古の播磨を訪ねて~西脇市編 その5
西林寺の唐子ツバキ

 西林寺の唐子ツバキ

 

今回は3月上旬に、西脇市坂本の西林寺(さいりんじ)の唐子ツバキを訪ねました。中国自動車道滝野社ICで降りて、国道175号線をひたすら北へ。前回取り上げた「荒神社の大ムクノキ」へ向かう途中にあった「上戸田」の信号を通過し、右手に式内社大津神社を見ながらさらに北進し、「西脇寺内」の信号を左折して突き当りまで約1㎞、目指す西林寺の駐車場に到着です。

 

西林寺は高野山真言宗の仏教寺院で、山号は栢谷山(かやだにさん)。白雉(はくち)2年(651)法道仙人によって開基されたと伝えられる古刹で、平安時代の中期に天台宗の恵心僧都により中興された観音霊場です。

秘仏の本尊十一面観音立像は858~1067年頃作の一木造りで、兵庫県の重要文化財に指定されています。

 

また、この西林寺はアジサイ寺としても親しまれています。山門をくぐって、本堂まで参道が真っ直ぐに延びている左手に、広さ約12,000㎡、初夏には約10万株のアジサイが咲き誇る「都麻乃郷(つまのさと)あじさい園」があります。

ここに出てくる「都麻」とは「播磨国風土記」託賀(たか)郡に出てくる里名で、このシリーズ26回目でも取り上げましたが、現在の西脇市津万(つま)から黒田庄町津万井(つまい)辺りまでと考えられています。

 

さて、今日訪ねた唐子ツバキは、参道途中の右側「歓喜天」を祀る「西脇聖天堂」の境内にあり、真っ赤な花を沢山つけてその存在をアピールしていました。一般的なツバキは、5~6枚の花弁が周りについていて、その中に、黄色い花粉を付けた沢山の雄しべが雌しべを囲っています。

一方、この唐子ツバキは、真紅の花びらの中も雄しべが小さい花弁化した紅色で覆われていて、ツバキというよりも、シャクヤクかダリアに似た趣きです。この花の咲く様子が唐子人形の髪を結った形に似ていることからその名前がついたようです。

今まで、唐子ツバキは何回か見たことはありますが、このような、大きなものは初めてでした。樹齢200年以上、根回り1.2mもあり、県下ではこれほどの古木は無く、昭和56年(1981)兵庫県の天然記念物にも指定されています。

 

春にはツバキ・サクラ、初夏にはアジサイ、秋には紅葉と四季折々に訪れる人々を楽しませてくれる西林寺。次は、一目10万株のアジサイを愛でたく思いました。

 

古の播磨を訪ねて~西脇市編 その4

古の播磨を訪ねて~西脇市編 その4
荒神社のムクノキ

荒神社のムクノキ

今回は2月中旬に西脇市鹿野町字森の本の荒神社のムクノキを訪ねました。あちらこちらから春の便りが届いてくるも、冬型の気圧配置になった非常に寒い日でした。

中国自動車道の滝野社ICで降りて、国道175号線を北上し、上戸田の信号を右折して県道566号に入りました。そして、加古川に架る鹿野大橋を渡って、比延(ひえ)郵便局のところの信号を左折して約300m、姫路市の南西部の端にある自宅を出て約1時間、やっと荒神社に到着しました。

地域の方からは「荒神の森」と呼ばれているようです。途中、神社を離れた街中から見ますと、その荒神の森の中で、一段とひときわ高くそびえている木がありました。境内に入って、その高木が今回目指すムクノキであることがわかりました。

鹿野町の説明板によると、このムクノキは、幹周り650㎝、樹高26m、推定樹齢650年の巨木で、ムクノキとしては兵庫県下で第4位の大きさを誇り、全国的にみても15位以内に入るそうです。流石に650年という長い間風雪にさらされているため、古木という感じは拒めませんが、近づいてみると、象の鼻のような巨大な根を辺り一帯に張り巡らし、その根でしっかりと大地をつかんでいるように見えます。平成16年3月9日には、兵庫県の天然記念物に指定されました。

また、境内には、サクラ・コガ・ケヤキ・ヒノキ・スギなどの木が生い茂り、夏場にはまさに鎮守の森を形作っていることだろうと想像しました。

境内の傍らには、かつて兵庫県の天然記念物に指定されていたイチイガシの巨木が生えていたそうですが、平成13(2001)年に自然倒木してしまい、現在は、その巨大な切株が残されています。かつては、この2本の巨木が、永い間、荒神社をはじめ、「森の本」の人々や歴史を見守っていたのであろうと思いました。そして、今はムクノキ1本になってしまい、その残されたムクノキの気持ちを慮ると、心なしか寂しい気持ちになってきました。

古の播磨を訪ねて~多可町編 その4

古の播磨を訪ねて~多可町編 その4
青玉神社

青玉神社


1月下旬に多可町加美区鳥羽(とりま)の青玉神社を訪ねました。専任の宮司はおられず、詳しい話は聞くことができませんでした。境内の説明板によると、御祭神は天戸間見命(あまのとまみのみこと)・大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)で、元は播磨・丹波・但馬の境である三国岳の頂上に鎮座していましたが、後に南の現在の鳥羽の地に遷座されたようです。さて、この「とりま」という地名ですが、この遷座した「祭場:まつりば」が「とりば」と訛り、それに「鳥羽」の文字が当てられ、さらに訛って「とりま」と呼ばれるようになったようです。


ご社殿は、国道427号線から、参道を100mほど入った処に鎮座しています。本殿は一間社流造杮葺(いっけんしゃながれつくりこけらぶき)、幣殿は切妻造檜皮葺(ひはだぶき)、拝殿は入母屋造萱葺(かやぶき)で、どっしりとしたご社殿が、冷気漂う凛とした清閑なスギ林の中に鎮座しています。


このスギ木立の中でも特に群生の7本は樹齢600年~1000年の巨木で昭和43年(1968)に兵庫県の天然記念物に指定されています。本殿に向かって左後ろには、幹周り約9.5m、根回り11.37m、樹高45m、という青玉神社社叢の中で、最大の巨木「夫婦杉」が辺りを圧倒して立っています。この夫婦杉は、過去2回その生存が危ぶまれたことがあるようです。しかし、その都度、多くの住民の拠出金やライオンズクラブの寄付金等により、樹木医による調査等が行われて、保存修理されて、今の元気な姿になったようです。


また、拝殿に向かって右手前には、「母乳の神木(ちちのき)」と言われているイチョウの木があります。太い枝のいたるところから大きな乳房に似た変形枝が出ています。それに触れると、女性の乳の悩みが解決するという言い伝えがあるそうです。


多可町の一番奥まで来て、改めて播磨国風土記託賀郡の冒頭部分の「巨人伝説」を思い出しました。天も山も高く、みどり広がる大地を、巨人は力いっぱい体を伸ばして、満足げにゆったりとした足取りで歩いている様子を想像し、私もゆったりとした気持ちで車を運転して帰路に着きました。