古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その6
高屋(たかや)の里
播磨国風土記には「土地は下の中です。
高屋という名がついたわけは、天日槍命が『この村は、高いことでは他の村に勝っている』とおっしゃいました。そこで高屋といいます。
都太(つだ)川 誰も地名の由来を語れません。
塩の村 所々に塩分を含んだ泉がわいています。そこで塩の村といいます。牛馬などが好んで飲んでいます。」とあります。
「塩の村」は「しおの」ということで、それが訛って現在の山崎町庄能(しょうのう)辺りと推定されており、「都太川」は伊沢川を指していると考えられています。したがって、播磨国風土記の「高屋の里」は現在の山崎町庄能辺りから伊沢川のはるか上流辺りまでの範囲を指しているのではないかと言われています。
今回は3月上旬に宍粟市を訪問しました。国道29号山崎町今宿北の信号を左折して、県道429号線に入り、伊沢川に付きつ離れつしながら、北西の方向に約8㎞、宍粟市立都多(つた)小学校に到着です。里の名のとおり、車で進むにつれて、どんどん土地も山も高くなっていくのがわかり、風土記の記述内容を実感しました。
播磨国風土記の「都太川」の名前は「都多小学校」という形で今に残っていました。この小学校は明治20年4月「都多簡易小学校」として設立された歴史と伝統のある小学校です。校長先生にお聞きしますと、小学校のある谷全体を「蔦沢(つたざわ)」と今も呼んでいるそうです。また、校章は、蔦の葉の中に「小」という字を入れたものです。「ツダ(ツタ)」という名前が色々な形となって今に残っていることを知り、非常に嬉しく感じました。
ただ、現在全校児童34名ということで、小学校の統廃合も心配されるところですが、平成32年までは、近隣の小学校との合併はないとのことでしたので、ひとまず胸をなでおろしました。「都多小学校」の校名が播磨国風土記に由来する貴重で、歴史ある名であるということを改めて校長先生と確認し合い、この名がいつまでも残っていくことを願って、小学校をあとにしました。 (宍禾の郡)
今回が最終回です。平成24年10月から平成29年3月まで足かけ6年にわたって取り組むことができました。全くの素人でしたので勉強勉強の毎日でした。読み返せば、誤字・脱字も沢山あり、恥ずかしい限りです。大勢の方々の声に支えられて113回まで続けられたことに感謝いたしております。ありがとうございました。