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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~加西市編 その6

古の播磨を訪ねて~加西市編 その6

河内(かふち)の里

 

 播磨国風土記には「土地は中の下です。ここは、川を由(よし)として、名がつきました。この里の田は、草を敷かずに稲種をまきます。そうするわけは、住吉の大神が、難波へ行かれるとき、この村で食事をなさいました。そのとき、お供の神たちが、人が刈っておいた草をバラバラにして、敷物としました。そこで、草の持ち主が大変困って、大神に訴えたところ、聞きわけて仰せられるには、『お前の田は、草を敷かなくても、草を敷いたように必ず苗が生えるだろう』、だから、その村の田は今も草を敷かずに苗代を作ります。」とあります。

 

 まず、この条は川があるから「河内の里」と名前がついたということですが、その川は、加西市を流れる万願寺川の支流の「普光寺川」を指していると考えられています。また、本文中にある「草を敷いて苗代をつくる」という記述は、現代の我々には、理解しにくいのですが、古代においては、苗代を作る前に、枯れ草を敷いたり、土に埋めたりして基肥を作ってからモミ撒きをしたようです。

 

 さて、今回は、加西市の最北部の河内町(こうちちょう)を訪ねました。中国自動車道加西ICで降りて、県道24号線に入り、北東の方向へ。「河内南」の信号を左折。ここから北部一帯が「河内の里」と呼ばれていた地域と考えられており、その中心を「普光寺川」が流れています。ここ「河内の里」には風土記の記述が納得いく田園風景が広がっていました。

 

 「普光寺川」は「普光寺」から名前を取ったものですが、普光寺は河内町にある寺院で、白雉2年(651)、法道仙人によって開基されました。法道仙人が山に登った際、妙法の声を聞き、ここに伽藍を建立したと伝えられています。第36代孝徳天皇の勅願により蓬莱山普光寺と号し、現在では書寫山圓教寺や法華山一乗寺と並び称される播磨六山天台宗の古刹です。

 

 参道を進むと、享保年間に造立された仁王門があります。この辺りから立ち並ぶ春日燈籠は、延々と本堂まで続き、ご住職によりますと二百基余りあるとのことでした。極めつけは、本堂正面にそびえ立つ、高さ7m、重さ22トンの巨大な春日燈籠で、東洋一の大きさと言われています。時々時雨れる肌寒い1月下旬のいっとき、播磨国風土記の河内の里にある大自然の中の名刹・普光寺にお参りし、悠久の時を独り占めして何かもったいないような気がしました。 (賀毛の郡)