古の播磨を訪ねて~佐用町編 その6
中川(なかつがわ)の里
播磨国風土記には「土地は上の下です。
仲川 仲川という名がついたわけは、苫編首(とまみのおびと)らの先祖の大仲子について、こんな話が伝わっているからです。神功皇后が朝鮮半島へ渡られるとき、船が淡路の岩屋に停泊しました。そのとき、激しい風雨が起きて、農民が皆濡れてしまいました。その時、大仲子は笘で家を作りました。皇后は『この人は国の宝です』とおっしゃって、氏姓をくださり、苫編首と名のりました。その人がここに住みました。そこで仲川という名がついたのです。
昔、天智天皇の世に、丸部具(わにべのそなふ)という人がいました。仲川の里の人です。この人が、河内の国・兎寸(とのき)の村(大阪府高石市)の人の持っている剣を買い取りました。剣を手に入れた後、一家の者みんなが死に絶えました。その後、苫編部犬猪(とまみべのいぬゐ)という人が、跡地に畑を作っていたところ、土の中からこの剣を見つけました。土が直接つかないように、土中に空間が保たれ、周囲の土から一尺ほど離してありました。その柄は朽ちてなくなっていましたが、その刃は錆びず、綺麗な鏡のように、きらきら光っていました。そこで、犬猪は、不思議に思って剣を取って家に帰り、鍛冶屋を呼んで、その刃に焼を入れさせました。その時、この剣が蛇のように伸び縮みしました。鍛冶屋は大変驚いて、焼を入れることができませんでした。そこで、犬猪は、霊妙な剣だと思って朝廷に献上しました。後に、天武天皇13年(684)の7月、曾禰連磨(そねのむらじまろ)をつかわして、元の所へ送り返されました。剣は、今もこの里の役所に置いてあります。」とあります。
解釈文が長くなりましたが、この部分は、「中川の里」の条の前半部分で、里名の付いた所以とそこに伝わる昔話が記述されています。
訪問した当日は、佐用町教育委員会の藤木さんにご案内いただきました。現在の志文川流域の三日月町末廣に、「新宿」という大字地区があります。ここには、昭和47年3月に県の重要文化財に指定された「播磨国 中津河」と刻印のある南北朝時代嘉慶2年(1388)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っています。この地区で「なかつがわ」という文字が残っている一番古い資料だそうです。その上、この辺りには、たまたまかもしれませんが、「中川」という姓も多く、「中川の里」は三日月町の志文川沿いにあったと一般的には考えられているようです。
また、ここ中川の里には、山陽道から分かれた支路美作道沿いに「中川駅家」が置かれていたことが分かっています。『延喜式』には「中川駅家」は、馬数5疋と定められていますが、その比定地はハッキリしていません。しかし、前述の三日月町末廣の新宿にあったと言われている新宿廃寺跡(現在、側柱礎石が三個残っていました。蓮華紋軒丸瓦が出土し昭和58年5月、町の文化財に指定)が、中川駅家ではないかと、唱える人もいます。いずれにしましてもこの里は、行政上かなり重要な土地であったと考えられています。
次に、土地の等級は「上の下」とあります。今まで何回も触れてきましたが、現存の播磨国風土記には、「上の上」の土地は無く、「上の中」は5里、「上の下」は2里記載してあります。讃容の郡は「上の中」の土地が3里、そして、ここ「中川の里」は「上の下」で、讃容の郡6里の内、4里が「上」に属します。これら現在の千種川・志文川沿い一帯は、古代よりかなり肥沃な豊穣の地で、きっと人々は豊かな生活をしていたのではないかと考えながら帰路につきました。
(讃容の郡)