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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~佐用町編 その5

古の播磨を訪ねて~佐用町編 その5

柏原(かしはばら)の里

 

播磨国風土記には「柏の木が沢山生えているので、土地に名をつけました。

筌戸(うえと) 伊和の大神が、出雲から来られたとき、嶋村の岡を腰掛としてお座りになって、筌(うへ:竹で作った魚をとらえる器)をこの川に仕掛けられました。だから、筌戸という名がつきました。ところが、この筌には魚が入らないで、鹿が入りました。大神がこれを捕まえてナマスにして召し上がられたところ、口に入らないで地に落ちてしまいました。そこで、ここを去って他の所へお移りになりました。」とあります。

 

この柏原の里は、旧南光町の下徳久・西徳久・東徳久が比定地と考えられています。次に、嶋村は、川と川に挟まれて、嶋のようになっている地域、所謂、千種川と志文(しぶみ)川に挟まれている現在の米田地区、さらに筌戸は東徳久の小字の殿崎と考えられています。また、その筌を仕掛けた川は、場所的に考えて、現在の千種川が比定地とされ、当時から、千種川には沢山の魚がいたと考えられます。

 

この条で以前から問題視されているのが、魚を取る器である筌に鹿が入ることはあり得ないであろうということですが、本文中に「嶋村の岡を腰掛として」とあるように、この条は巨人伝承であるので大型の筌と解することで理解できると思います。

 

今回は、旧佐用郡南光町まで来たので、神亀5年(728)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開山した「船越山南光坊瑠璃寺」を訪ねました。旧南光町の町名の由来はこの「南光坊」にあります。本堂・金堂・薬師堂をはじめ、12の坊があり、開山以来1300年の長きにわたり、高野山真言宗の名刹であり、「西の高野山」として親しまれています。本堂の鐘は、兵庫県の重要文化財に指定されていて、この鐘には、赤松円心の末弟である覚祐が願主となり、応安2年(1369)に赤松一族が寄進したことが刻まれています。          

 

ご本堂に続く苔むした階段を少し汗ばみながら上っていたとき、涼しい一陣の風が吹いてきて、思わず「薫風自南来」という北宋の詩人蘇東坡の詩の一節が頭に浮かんできました。もう五月がそこまで来ていることを実感し、爽やかな気分になった旧南光町訪問でした。              (讃容の郡)