古の播磨を訪ねて~加古川市編 その5
松原御井(まつばらのみい)
播磨国風土記には、印南別嬢(いなみのわけいらつめ)が亡くなられた後の条に、「このとき、景行天皇は別嬢を慕い悲しみ、『この川の物はこれからは絶対に食べないようにしよう』と誓われました。だから、加古川の鮎は、天皇の食べ物として献上されることはありません。その後、天皇は病気になられ、『よい薬が欲しい』とおっしゃられました。そこで、宮を思い出の賀古の松原に造って都から移られました。ある人が、ここに清水を掘り出しました。それで松原の御井といいます。」とあります。
播磨国風土記を紐解くと「井戸」に関する記述は沢山出てきます。このシリーズでも26回「託賀郡・都麻の里」や29回「賀毛郡・修布の里」、35回「賀毛郡・穂積の里」、74回「讃容郡・邑宝の里」等で取り上げましたが、まだまだあります。
この「松原御井」は、現在加古川市尾上町養田の工場街の西端にある小さな公園の中の井戸が比定地とされています。加古川のすぐ東を流れる「泊川」の遊歩道整備に伴い設けられた東屋があり、その中に憩いの場のように再現されています。「松原御井」という石碑も建立されており、また、設置してある説明板によると、本来の場所は加古川と泊川との中洲あたりにあったということです。そして、近くの神社のお祭り用の水として長い間使用されていたようですが、残念ですが、今は涸(か)れ井戸となって、砂利石が敷いてありました。加古川のすぐ傍ですから数mも掘れば水が滔々と湧き出るのではないかとも思いましたが、人気の少ない処ですので、安全面からも現在の状態の方が良いのかなとも考えました。