古の播磨を訪ねて~上郡町編その4
髙嶺神社
1月中旬の寒い日に、上郡町山野里の髙嶺神社を訪ねました。国道373号線の千種川に架る「あゆみ橋」の東詰を左折して県道5号線に入り、「上郡中央公園」を通り過ぎ、「ピュアランド山の里」の前を通過。後は、ヘアピンカーブの連続で、それを何とか乗り越えて、髙峯山(たかみねやま)の頂上にある髙嶺神社に辿り着きました。社務所をお訪ねしますと、深澤景弘宮司がいらっしゃり、色々と詳しくご説明いただくことができました。
宮司によりますと、髙嶺神社略記には、次のような記述があるようです。かつては東の広峯神社、西の髙嶺神社と言われ、兄弟社として栄えました。ともに牛頭天王(ごずてんのう:スサノオノミコト)をお祀りしています。天禄3年(972)に鎮悪除災の神として第64代円融天皇の勅命により祀られ、その後、萬寿2年(1025)に第68代後一条天皇の勅命により大祭典が執り行われました。そして、60年後の応徳元年(1085)干支の乙丑(きのとうし)年には、萬寿の儀式にならい、大開帳(おおかいちょう)と言われる式年大祭が執り行われ、以後60年毎のこのお祭りは、乙丑(いっちゅう)大祭として、災害・疫病・事変などから、国家・地域の安全を祈るお祭りとなりました。
昨年はその丁度半分の30年目に当たり、施設の護持・関係文化の伝承・知識や技術の継承を目的として、中開帳(なかかいちょう)と言わる大祭が5月3日~5日に厳粛に執り行われました。
現在本殿は上郡町の有形文化財に、お田植祭と穂揃祭、獅子舞は無形民俗文化財に、そして、ご神木の千年杉は天然記念物にそれぞれ指定されていて、流石に由緒ある神社と感心しました。
また、本殿は、昭和60年に三間社入妻流造の檜皮葺から銅板葺に変えられましたが、この歴史あるお社の屋根の葺き替えの指揮を執ったのが、姫路城昭和の大修理の和田通夫棟梁とお聞きし、さらに驚きました。
かつては徒歩で登り、参拝するしかなかった参道を、車で悠々と登り、あの和田通夫棟梁が手がけられた由緒ある髙嶺神社に参拝できたことのありがたさ、そして、本当に寒い中を、色々とご説明、ご案内いただいた深澤宮司にも感謝し、上郡町の隠れたパワースポットを発見した気持ちになって下山しました。