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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~加東市編 その4

古の播磨を訪ねて~加東市編 その4
起勢(こせ)の里 総合運動公園

起勢(こせ)の里

 

播磨国風土記には、「土地は下の中です。起勢と名づけたのは、巨勢部(こせべ)らが、この村にいたので、里の名としました。臭江(くさえ)臭江という名がついたのは、第15代応神天皇の御世に播磨の国の農村に、我こそは村長だという者が沢山いて、それぞれが自分の村の中で互いに闘っていたとき、天皇の命令によって、この村に追い出して集めて、みんな切り殺してしまいました。死骸のにおいが臭かったので臭江といいます。また、その血は黒く流れました。だから、黒川といいます。」とあります。

 

先ず、風土記後半の「臭江」ですが、ここの記述から大和政権の権力が、まだ完全に行き渡っていない状態であったことを示していると一般的には解釈されています。また、現在小野市には「黒川町」という町名は残っていますが、血で川が黒く流れたという「黒川」の比定地については、ハッキリしていないようです。

 

次に「こせ」についてですが、現在加東市には、「西古瀬・中古瀬・東古瀬」という町名が残っています。この中で、中古瀬と東古瀬は、このシリーズ44回目『小目野(おめの)』の中で取り上げました北播磨第一の大社と言われている式内社「佐保神社」の氏子になります。

また、現在のこの辺りは、平池公園や起勢(きせ)の里総合運動公園となっていて、周辺には、小学校・幼稚園・児童館などがあり、落ち着いた雰囲気の文教区域となっています。

 

ただ、残念なことは、現在は上記のように「きせのさと」と言います。「起勢の里」を、播磨国風土記のように「こせのさと」と言うのは、今の時代、少し難しいかなと思いながらも、地名が「古瀬」と字は変わっても「こせ」の発音で今に残っているのですから、播磨国風土記のままに「こせのさと」とすれば、その名前の由来等も含めて、未来永劫に語り継がれていくだろうにと、少し残念な気持ちがしました。

事実、ご近所の方や起勢の里総合運動公園の方に、「もともとは『こせのさと』というのですが、ご存知ですか?」と尋ねましたが、やはりどなたもご存じなかったです。

 

(賀毛の郡)