古の播磨を訪ねて~加西市編 その4
飯盛岳(いひもりたけ)・糠岡(ぬかおか)
播磨国風土記には「飯盛岳と名がついたのは、大汝命のご飯を、この山に盛りました。そこで飯盛岳といいます。糠岡という名がついたのは、大汝命が、下鴨の村で稲をつかせられたところ、糠が散って、この岡に飛んできました。そこで糠岡と言います。」とあります。
今回は6月の梅雨の合間に、現在の加西市で播磨国風土記の中で「米」に関係する記述のある二ヶ所を訪ねました。
山陽自動車道の加古川北ICで降りて、風土記記載の「糠岡」の比定地と言われている「糠塚山」を目指しました。加西市網引町(あびきちょう)と小野市西脇町との境界にある標高150mほどの富士山を小さくしたような美しい山がそれでした。
北側を万願寺川が流れ、西から北にかけては低い台地状の平野が広がっていて、南には小高い丘が続いていました。平野部では、田植えの済んだ田園が広がっていて、そこに、逆さ富士ならぬ、「逆さ糠塚山」が映っていて、久々に感動ものに出会いました。
次に「飯盛岳」ですが、加西市豊倉町には兵庫県立フラワーセンターがあり、その裏山の124mの「飯盛山」が比定地とされています。
ひょうご歴史研究室研究コーディネーターの坂江渉氏は、『飯盛山という名には、神をもてなすため、地域の人々が捧げた御飯などのご馳走を神と一緒に腹一杯食べられる機会、所謂この地域あげての村祭を思い出させる山という意味も込められている』と言っています。
また、民俗学者の柳田国男氏は、この「盛る」という言葉について、『ものを高く積み上げるという意味と神や貴人に酒食を出してもてなすという意味がある。後者の用法は、今も《酒盛り》などの使い方で残っている』と言っています。
この二人の考えを参考にしながら、古代においては、ご飯を腹一杯食べたり、酒盛りをするということは、夢のまた夢で、糠岡や飯盛もその気持ちの表われであったのではないか、と思いました。
現在は米離れが進んで、年々米の消費量は減少の一途を辿っているようですが、古代人が今の私たちの食生活を見たら、どう思うだろうかと考えながら飯盛山を後にしました。
(賀毛の郡)