古の播磨を訪ねて~加古川市編 その4
含芸(かむき)の里
播磨国風土記には
「元の名は瓶落(かめおち)です。土地は中の上です。瓶落と名づけたわけは、第16代仁徳天皇の御世に、私部(きさきべ)の弓取(ゆみとり)らの先祖、他田熊千(おさだのくまち)が、酒を入れた瓶を馬の尻につけて、どこに家を作ろうかと探していたとき、その瓶が、この村に落ちました。そこで瓶落といいます。
また酒山があります。第12代景行天皇の御世に、酒の泉が湧き出しました。そこで酒山と言います。農家の人たちが飲んで、酔っぱらって大喧嘩をしたので、埋めて塞がせてしまいました。その後、第38代天智天皇9年(670)の御世に、ある人が掘ってみたところ、まだ酒の気がありました。」とあります。
今回は加古川市を訪問しました。加古川バイパス加古川西ランプで降りると、そこは東神吉町(ひがしかんきちょう)西井ノ口です。現在、加古川市には東神吉町・西神吉町があり、その大まかな範囲はJR山陽本線より北で、東は加古川、西は高砂市、北は加古川市志方町に挟まれた地域でかなり広範囲に及びます。
また、公共の建造物としては、「加古川市立西神吉小学校・東神吉小学校・東神吉南小学校・神吉中学校」が「カンキ」の名前を今に伝えています。
次に、神吉中学校から北西約2㎞に存在する「宮山」の南麓には、第15代応神天皇をご祭神とする「神吉八幡神社」が鎮座し、立派なご社殿を誇っています。「神吉」の一番北に鎮座ましまし、南に広がる「神吉」の町々を見守っているように感じられました。
このお社は、応永3年(1396)大国村に創建されましたが、その後、応仁2年(1468)に現在地に移転されています。毎年10月15日の秋季例大祭には、布団屋台が出て、大いに賑わうようです。
最後に、元の名前の「カメオチ」と「酒山」ですが、「カメオチ」が訛って「カムキ」になったような気もしますが、地元の人々にお聞きしましたが、流石に「カメオチ・酒山」という地名もしくは建造物等は、残念ですが今に残っていないようでした。
播磨国風土記本文のように「酒の泉」があれば、アルコール好きの人にとっては、無上の喜びというか、それこそ夢のような話だろうな、と思いながら帰路につきました。(印南の郡)