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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4

古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4
大きなS字形を描いた美しい流れ
古の播磨を訪ねて~宍粟市編 その4
ミニモノレール

比治・川音

 播磨国風土記には、「宍禾(しさは)という名がついたのは、伊和の大神が、国を作り固められた後、山川谷尾根を国の境として、国内を巡行なさったとき、矢田の村で、舌を出している大きな鹿に出会われました。そこで、大神は『矢は、鹿の舌にある』とおっしゃいました。そこで、シサハ(鹿会:シシアハ)の郡と名づけ、村の名を矢田の村と名づけました。土地の肥え具合は、中の上です。

 比治という名がついたわけは、孝徳天皇の御世に、揖保の郡を分けて、宍禾の郡を作ったとき、山部の比治が、里長に任命されました。この人の名によって、比治の里といいます。

 川音(かわと)の村 天日槍命がこの村にお泊りになって『川の音が大変高い』とおっしゃいました。そこで川音の村といいます。」とあります。

 播磨国風土記のこの条には、少し矛盾するような記述があります。最初の部分で、伊和大神の国占めの後に「宍禾の郡」ができたことを述べ、その後、第36代孝徳天皇の御世に「揖保の郡」から分割して「宍禾の郡」ができたと記されています。この点については、一般的にはあまり問題視されてはいませんが、個人的には、どちらがどうなのか興味を抱いている箇所です。

 今回は321日の春分の日に、宍粟市山崎町の「上比地・中比地・下比地・川戸」を訪ねました。播磨国風土記記載の「比治の里・川音の村」は今も健在でした。ここ「上比地」には、「兵庫県立国見の森公園」があり、その頂上まで標高高低差約300m、延長1100mを約18分かけて上るミニモノレールに乗りました。

 途中、滔々と流れる揖保川を中心に、宍粟市山崎町の中心部分を眺めることができます。やや、春霞がかかっていましたが、展望台から眺めるとその揖保川は山崎町やたつの市あたりでは全体的に北から南へ流れていますが、山崎町御名(ごみょう)と川戸を繋ぐ戸原橋の少し南あたりから大きなS字形を描いた美しい流れになっています。

 帰宅途中に、車の通らない揖保川東の川戸側の土手に立って川の流れを観察してみると、確かに播磨国風土記記載のように「高い川の音=美しいせせらぎの音」が今もしていて、穏やかな日差しを浴び、土筆狩りをして春の息吹を楽しむことができました。

 

「兵庫県立国見の森公園」のHPは こち   地図は こち