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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その3

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その3

伊和の里

播磨国風土記には「船丘・波丘・琴丘・箱丘・匣(くしげ)丘・箕丘・甕(みか)丘・稲丘・冑丘・沈石(いかり)丘・藤丘・鹿丘・犬丘・日女道(ひめじ)丘の14の丘の物語。土地は中の上です。このように、伊和部(いわべ)という名がついたのは、宍禾(しさは)の郡の伊和君などの氏族がやって来て、ここに住んだため、伊和部と名づけたのです。

手苅(てがり)丘という名がついたわけは、近くの国の神がここに来て、手で草を刈り、食べ物を置くスゴモとしました。そこで手苅という名がつきました。また、ある人が言うには、『韓人(からひと)たちが初めてここに来たとき、鎌を使用することを知らなくて、素手で稲を刈りました。だから、手苅の村という』と。前述の14の丘のことは、以下、全部説明します。昔、大汝命(おおなむちのみこと)の御子・火明命(ほあかりのみこと)は、心も行いも非常に荒っぽい神でした。そのため、父神は思い悩んで、火明命を捨てて逃げようと思いました。そこで、因達(いだて)の神山まで来て、火明命を水汲みに行かせ、まだ帰ってこないうちに、すぐ船を出して逃げ去りました。このとき、火明命は、水を汲んで帰ってきて、船が出ていくのを見て、大変怒りました。波風を起こし、父神の船に追い迫りました。父神の船は、進み行くことが出来ず、遂に難破してしまいました。そういうわけで、父神の船が難破した所を船丘と名付け、波が打ち寄せたところを波丘と名付けました。琴が落ちた処は琴神丘と名付け、箱が落ちた処は箱丘、匣(くしげ)の落ちた処は匣丘、箕(み)が落ちた処は箕方丘、甕(みか)が落ちた処は甕丘、稲が落ちた処は稲牟礼(いなむれ)丘、冑が落ちた処は冑丘、沈石(いかり)の落ちた処は沈石丘、藤蔓で作った網が落ちた処は藤丘、鹿が落ちた処は鹿丘、犬が落ちた処は犬丘、蚕(ひめこ)が落ちた処は日女道丘と名付けました。」とあります。

台風12号が四国・九州に大雨を降らし、台風11号が本土接近を狙っている8月上旬に、姫路市新在家の「八丈岩山」に登りました。この「八丈岩山」は播磨国風土記に出てくる「因達の神山」の遺称地と一般的には考えられています。姫路市新在家西の登山道から登りましたが、頂上にある掲示板で、沢山の登山道があることが分かりました。当日は、やや曇空でしたが、心地よい風が吹いて、セミ時雨に小鳥のさえずりを堪能しながら頂上を目指しました。登山道は「城乾中学校校区地域夢プラン実行委員会」の皆さんのお蔭で、よく整備されており、195mを一気に登ることが出来ました。頂上には「八丈岩山」の名前の由来になった「八畳岩」というチャートでできた平らな岩がありました。ここからは、姫路市街が一望のもとに納まり、東方遠くには明石大橋が、そして、上島・倉掛島といった小さな島々、西には小豆島を見ることが出来、絶好の展望所となっています。

現在、姫路市今宿の蛤山の麓に鎮座しています式内社「高岳神社」は、高岳の神がこの「八丈岩山」の上に童子となって現れたことから、この山に神社を建立したのが始まりで、後に、現在の場所に移設されたようです。頂上の「八畳岩」のすぐ北には、その名残の小さな祠(ほこら)がお祀りしてあります。

さて、播磨国風土記のこの条は、火明命を置き去りにして船を出してしまった父・大汝命に対して、大いに怒った火明命が、波風をおこして父の船を沈めてしまうという巨神の父と子の間で壮絶な闘いが行われたことを記しています。そのため積み荷が流れ出し、それぞれ小島に漂着しました。その小島が今、姫路市街地に点在する小さな丘であり、この丘の名前が、流れ着いた品物の名に由来するといわれています。

これらの丘の名前については諸説がありますが、一般的には「船丘=景福寺山 琴神丘=薬師山 匣丘=船越山またはビングシ山 箕方丘=秩父山 甕丘=神子岡 稲牟礼丘=稲岡山 冑丘=冑山 日女道丘=姫山」が比定地とされています。波丘・箱丘・沈石丘・藤丘・鹿丘・犬丘については、現在地不明のようです。

この条の姫路の14の丘の物語は、姫路にある沢山の姿の良い丘をめぐって、古代の播磨人が豊かな想像を膨らませた壮大なスケールの姫路の国造り物語と言えると思います。
〔餝磨(しかま)の郡 伊和の里〕