古の播磨を訪ねて~加東市編 その3
小目野(をめの)
播磨国風土記には、「応神天皇が国内を巡行なさったとき、この野に宿をおとりになり、四方をご覧になって、おっしゃいました。『あそこに見えるのは、海か川か』と。お供の人が『これは霧です』と答えました。そのとき天皇は、『大雑把な土地の様子は見えるけれども、小目はない(細部はよく見えない)なあ』とおっしゃいました。そこで、小目野という名がつきました。また、この野にちなんだ歌をお詠みなりました。
うつくしき(かわいらしい) 小目の笹葉に あられ降り
霜降るとも な枯れそね(枯れるなよ) 小目の笹葉
このとき、お供の人が井戸を掘りました。そこで、ササの御井といいます。」とあります。
今回は、梅雨の雲が低く垂れこめていた6月の初めに、加東市野村を訪ねました。この野村地区の南部の加古川沿いには、播磨国風土記の「小目野」の比定地とされている「小部野(おべの)」という地区があります。この「小部野」は、播磨国風土記の「オメノ」が「オベノ」と訛ったものと考えられています。辺りは、静かな田園地帯で、当日は丁度田植えの準備の真っ最中でした。
現在この野村地区は、北播磨第一の大社と言われている式内社「佐保神社」の氏子になります。このお社の御本殿は、銅板葺三間社流造正面千鳥破風で、その手前の幣殿・拝殿・瑞神門にはそれぞれ意匠を凝らした彫刻が施されています。中世においては、源頼朝の妻・北条政子の庇護厚く、政子によって建立された西の内鳥居が残っているところが、村名になりました。現在の「鳥居地区」がそれです。そもそも、社町という町名は、この「佐保神社」の門前町として発展してきたことに由来すると一般的には言われています。その氏子は旧社町・旧滝野町・旧小野市の25ケ村からなりたっており、氏子の村数では、県下でも一・二位になるのではないかと思われ、その中の一つに、風土記の時代から連綿と続いている「小部野」があるのです。
空模様があやしくなり始めたので帰路につきましたが、国道372号線を走りながら見る代掻きの済んだ田園地帯は、満々と水をたたえたため池のようでした。秋には、たわわに実った稲穂が頭を垂れている様子を思い描きながら車を走らせました。
佐保神社の地図はこちら↓
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps...
(賀毛の郡 穂積の里)