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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~播磨町編 その3

古の播磨を訪ねて~播磨町編 その3

大中遺跡

 1月中旬の土曜日に播磨町の国の史跡地「大中遺跡」を訪ねました。先ず、播磨町郷土資料館を目指し、兵庫県立考古博物館の少し西の建築物がそれで、これらの建物も「大中遺跡」地内に建てられています。郷土資料館の南には別府鉄道(昭和59年=1984年廃線)のディーゼル機関車と客車が展示されていて、丁度ペンキの塗り替え中でした。郷土資料館のすぐ北の遊歩道が、かつての別府鉄道の線路跡と、学芸員さんが教えてくれました。

 さて、この「大中遺跡」は、昭和37年(1962)に、当時播磨中学校3年生だった3人が発見したものです。その発見場所は、播磨町大中の「大増畑(おおぞばたけ)」と呼ばれていた畑の中だそうです。この3人は、常日頃から考古学を熱心に学んでいて、土地の古老から「大正年間に、別府鉄道施設工事をしたとき、この畑地から多くのタコツボのような物が掘り出された」ということを聞き、この畑を発掘したところ、沢山の土器片が出土し、このことが大中遺跡発見のきっかけとなったとのことです。

 この大中遺跡は弥生時代後期(今から約1900年前)の代表的な遺跡で、長さ約500m、幅約180mで、広さは約70,000㎡もあるようです。今までに、全体の約20%の面積の調査が終了しており、円形・方形・長方形・五角形・六角形など73棟の竪穴住居跡が見つかっています。この調査結果から考えて、遺跡内にはおおよそ250棟もの住居が建てられていたものと推測され、大いに驚きました。

 古代国家が形成されようとする日本の黎明期において、その遺跡規模や出土品から、この地は、播磨ではかなり有力なムラであったと考えられます。そして、現在は大小10棟近くの住居が復元されています。その中を覗いてみて、当時の人びとの寝食をはじめとする普段の生活はどうであったのだろうかと、またまた古代に思いを馳せ、色々と想像を巡らして、ロマンに浸っている間に、太陽は大きく西に傾いていました。

大中遺跡の地図はこちら↓

http://map.yahoo.co.jp/maps?ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&lon=134.8772629&lat=34.7262782&p=%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E9%81%BA%E8%B7%A1&z=18&uid=131bc0bf0d2bf9f943b420966b0ce66bdcfa84e6&fa=ids