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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~加西市編 その2

古の播磨を訪ねて~加西市編 その2
賀毛の郡 上鴨・下鴨の里
 上鴨の里・下鴨の里・修布(すふ)の里

 播磨国風土記には「賀毛(かも)と名づけたわけは、応神天皇の時代、つがいの鴨が巣を作って卵を産みました。そこで賀毛の郡といいます。
 上鴨の里 土地は中の上です。
 下鴨の里 土地は中の中です。応神天皇が国内の様子をご覧になるため巡行なさったとき、この鴨が飛び立って、修布の井戸の木にとまりました。このとき天皇が『何の鳥か』と尋ねられました。お供の人で当麻品遅部君前玉(たぎまのほむぢべのきみさきたま)が『川に棲んでいる鴨です』とお答え申し上げました。この鴨を、天皇の命令で、弓で射させられたとき、一本の矢を放って、二羽の鳥に当たりました。鳥が矢をつけたまま山の峰を越えた所は、鴨坂と名づけ、落ちて倒れた所は、鴨谷と名づけ、鴨の吸い物を煮た所を、煮坂と名づけました。
 修布の里 土地は中の中です。この村に井戸がありました。一人の女が水を汲んでいて、そのまま井戸にスイ込まれてしまいました。そこで、スフという名がつきました。」とあります。
 10月に入り、あちらこちらで祭りの笛や太鼓の稽古が盛んになったある日、加西市を訪ねました。この鴨の里に登場してくる地名で、「鴨谷」は現在の加西市鴨谷に、そして「鴨坂」はその鴨谷から北条町横尾へ越える「古坂(ふるさか)峠」と比定されています。「煮坂」については不明のようです。
 次に「修布の里」は加西市吸谷町(すいだにちょう)と考えられています。風土記に記載されている「修布の井戸」は、今も加西市吸谷町の民家に残っている井戸のようです。御当主の話によりますと、その井戸は現在も使われていて、しかも三軒の家が、この井戸からポンプで水を汲み上げて、使用しているとのことです。古代からずーっと利用されている井戸が、水脈が変わることもなく今に残っているということで、過去のそのときどきに生きたそこの人びとが、生活の中で、何よりも「水」を大切にしてきたかということが分かります。その井戸が今に伝わるということ自体、神がかり的なことと思われ、それこそ何か清い水で洗われたような非常に清々しい気持ちになりました。
 なお、加西市は来年早々に、ここにこの「修布の井戸」に関する説明版を設置するようです。

(賀毛の郡 上鴨・下鴨の里)