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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~神河町 編 その2

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神前の郡
神前の郡

粟鹿川内(あはがかふち)・大川内(おおかふち)・湯川

播磨国風土記には
「川が但馬の阿相(あさご)郡の粟鹿山から流れてきています。
そこで、粟鹿川内といいます。ニレが生えています。
 大川によって、大川内という名としました。檜・杉が生えています。また、生活や風習の違う北国の蝦夷(えみし)の人たちが三十人ほど暮らしています。  

昔、湯がこの川に出ていましたので、湯川といいます。檜・杉・ツヅラが生えています。
また、蝦夷の人たち三十人ほどが暮らしています。」とあります。
この条に関しては、古来色々と物議を醸している箇所です。風土記本文のように、確かに但馬の国(現在の朝来市)には「粟鹿山(あわがやま)」が存在し、頂上の電波塔が少し気になりますがその山容の美しさから「ふるさと兵庫50山」にも選ばれています。
この山の麓には延喜式名神大社・但馬一宮の「粟鹿神社」が鎮座していますことなどから、古代の但馬の人は意味ある山と考えていたようです。
ところで、生野峠より北の川は大河丸山川に支流として流れ込みますが、生野峠を越えて、市川に流れ込むことは物理的に不可能なことです。
また、「粟鹿川内」が現在のどこに比定されるのかも明確ではありません。
しかし、但馬の人々が「粟鹿山」に畏敬の念を抱いていたように、現在の神河町粟賀町(あわがまち)辺りに住んでいた古代北播磨の人々も但馬の「粟鹿山」に対して、信仰心のようなものを持っていて、その山から「粟鹿川(今の越知川を含むその支流のことか)」が流れ出し、風土記のその後に登場してくる大川(現在の市川)に流れ込んでいると思っていたのではないかと考えられています。

また、風土記の「大川内」は、まさに「大河内」で、「湯川」は、寺前の町を通って市川に合流している「小田原川」と比定されています。
現在「小田原川」の上流には峰山温泉がありますが、古代にあっても温泉が湧き出ていたのでしょうか。
台風18号が通り過ぎた後、上記の場所を訪ねました。
「粟賀小学校」では、学校南の村中の道脇に車を停めさせていただきました。
稲刈りの済んだ田んぼの畦には、まだ蕾のマンジュシャゲが沢山生い茂っており、空は澄み切っていて、山間から聞こえてくる小鳥のさえずりに耳を傾けながら小学校に向いました。ところが、小学校に近づくに従って、何か様子がおかしいのに気がつきました。
校舎も校庭も全く子どもの気配がないのです。
門は封鎖され「立ち入り禁止」の看板が貼り付けてありました。
そばを通りかかった老婆にお聞きしますと「この(2013年)4月から『大山小学校』と合併し、『神河町立神崎小学校』となって、この南西200mほどの所に移転したよ。」ということでした。
ここにも、少子化・行革の波は押し寄せ、140年も続いた由緒ある名前の学校がまた一つ消えたかと思うと、急に寂しい気持ちになってしまいました。

[神前の郡]