古の播磨を訪ねて~加古川市・高砂市 編 その2
大国(おほくに)の里・伊保山
播磨国風土記には
「大国と名づけたわけは、農家が沢山あったからです。
この里に山があり、名を伊保山といいます。仲哀天皇(第14代)が亡くなられ、ご遺骸を神としておまつりするようになって、お后の神功皇后が石作連大来(いしつくりのむらじおほく)を連れてきて、陵墓を作るため、讃岐の国の羽若(はわか)の石を求めさせられました。
そこから播磨の国へお帰りになって、まだご葬儀の場所が定まらないとき、オホクが、その場所を見顕(みあらは:発見)しました。
そこで、美保(みほ)山といいます。
山の西に原野があり、その中に池がありますので、名を池の原といいます。」とあります。
この「大国」とは現在の加古川市西神吉町大国辺りから高砂市伊保辺りまでの範囲と比定されています。
播磨国風土記の印南(いなみ)の郡の最初に出てくるのがこの「大国の里」ですが、普通、この「大国」という里名にも、何らかの驚きを覚えてしまいます。
播磨国風土記には「土地の肥え具合は中の中・農家が沢山あるから大国」とだけ記されています。
加古川の扇状地が広がる河口に近い西側一帯には田園地帯が広がっていたものと思われます。
そして、沢山の農家があって、農作業に従事する人も多くいて、人びとは広い土地で、よい生活を送っていたものと思われ、領域的にも人口的にも産業的にも「大国」であったと考えられています。
次に「伊保山」ですが、上記風土記の本文からしますと、もともとは「ミホヤマ」で、それが訛って「イホヤマ」になったいうことになります。
現在明姫幹線沿いに、削られたその岩肌を荒ぶる神のごとく丸出しにして鎮まっています。
「伊保山」の南側一帯には、水田やレンコン畑が広がっていて、そこの地名が「伊保・伊保崎・伊保東」等々、風土記の地名を受け継いでいる町名がその他いくつか残っています。
前述の加古川市の「大国」をはじめ、これらの町名の由来を思うと、何かホッコリとした、不思議と落ち着いた気持ちになってきます。
さて、この「大国の里」の条の「池の原」の話に続いて記載されているのが、このシリーズ3回目に登場しましたかの有名な「石の宝殿」です。
[印南の郡 大国の里]