古の播磨を訪ねて~上郡町 編
野磨駅家(やまのうまや)
今回は小雨の降る中、上郡町落地(おろち)の
古代山陽道野磨駅家遺跡を訪ねました。
古代山陽道は、奈良・平安時代には都と九州の大宰府を結ぶ重要な道で、
当時の日本で一番大切な大路
(だいろ、中路:ちゅうろ=東海道・東山道)でした。
駅家は、唐・新羅等の使節や役人に対して、馬の乗り継ぎや食料の支給、
宿泊所の提供などを目的としたものでした。
その駅家は、通常約16kmごとに設置されましたが、古代山陽道は、
国家が非常に重要視した官道でしたので、約8kmごとに設置されていました。
そのような大切な施設が、この現在の上郡町落地字飯坂・八反坪(はったんつぼ)に設置されていました。
「養老律令」(757年施行)には、その最初の行に「およそ、諸道に駅馬(やくめ)置かむことは、
大路廿疋(20ぴき)、中路十疋、小路五疋」とあり、野磨駅家には常時20頭の馬が用意されていたようです。
しかし、全国に、400ヶ所以上も設置された駅家は、そのほとんどが、開発により失われてしまい、
現在駅家跡と確定されている遺跡は、
全国でこの野磨駅家と布勢駅家(ふせのうまや:たつの市揖西町小犬丸)
の二ヶ所だけなのです。
古代山陽道は、これまでの発掘調査により、この上郡町あたりでは、県道5号線(姫路上郡線)と
ほぼ重なるルートに作られていたと考えられ、その道幅は、約10mもあったようです。
ところで、かの清少納言までも、その著書「枕草子」の中で
「むまやは、梨原。(滋賀県草津市)・・・やまのむまや、
あわれなること(しみじみと身にしみて感じられること)を
聞きおきたりしに、またあはれなることのありしかば、云々・・・(第223段)」
と書き留めていることや、
その昔主要な役目を果たした駅家の遺跡がこの播磨にだけ二ヶ所も残っていることを思うとき、
播磨人として、何か誇らしく思ってしまうのは私だけでしょうか。
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