古の播磨を訪ねて~播磨町・稲美町 編
大見山(おおみやま)
播磨国風土記には
「昔、任那(みまな:5~6世紀頃韓国南部にあった小さな国々の連合体)からの渡来人で、大部造(おおとものみやつこ)らの祖先である古里売(こりめ)が、この野を耕して粟を沢山撒きました。
そこで、アハハの里と名前がつきました。
また、この里に舟引原という所があります。
神前(かむさき)の村に荒々しく悪いことをする神がいて、いつも通り過ぎる舟の半分を通しませんでした。
そこで、通行する舟は、印南川(加古川)河口の大津に入り、川を上って賀意理多(かおりた)の谷から陸路舟を引いて、明石の郡の林の港に行きました。そこで、舟引原といいます。」
とあります。
後半部分の通せんぼされた船は加古川の大津(現在の加古川市米田町船頭か加古川町本町辺りか?)にとどまり、そこから加古川を遡って、カオリタの谷(加古郡稲美町天満大池の東西の谷か?)を、船を押したり、担いだり、引っ張ったり、沼を渡ったりして明石川に入り、下って今の林崎漁港辺りに至ったと思われます。
当時の船はさほど大きくはなかったとしても、大変な重労働であったことが推測できます。
現在、天満大池の西は稲美町六分一という地名で、ここの土地の古老によれば、天満神社御旅所辺り一帯を、以前「船引」と言っていたことがあるということでした。
従って、南はJR土山駅辺りから天満神社、さらにその北の湖沼地帯を含む広い範囲が風土記の「舟引原」と考えられているようです。
[賀古の郡 鴨波の里]
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