古の播磨を訪ねて~多可町 編
荒田(あらた)
播磨国風土記には
「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。
父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約7ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。
そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。
すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。
後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」
とあります。
播磨国風土記には、なぜ田が荒れてしまったかは記載されていません。
しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです。
現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があります。
また、隣の区の多可町加美区的場には見るからに荘厳な式内社 荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています。
したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます。
[託賀(たか)の郡 賀美(かみ)の里]
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