播磨広域連携協議会

はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~加西市 編

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玉丘古墳公園
玉丘古墳公園

玉野・根日女

播磨国風土記には
「兄のオケ(24代仁賢天皇)、弟のヲケ(23代顕宗天皇)お二人の皇子が、美囊(みなぎ)の郡志深(しじみ)の里にあった高野の宮にいらっしゃった時、国造許麻(くにのみやつここま)の娘、根日女命(ねひめのみこと)のもとに、山部少楯(やまべのをだて)を遣わして、求婚なさいました。
そこで、ネヒメはこの求婚をありがたくお受けしました。
しかし、お二人の皇子はお互いに姫を譲り合って、結婚なさらず、月日がたち、ネヒメは年老いて亡くなってしまいました。
お二人の皇子は大変悲しみ、すぐにヲダテを遣わして、
『朝日から夕日まで一日中日が当たる土地に墓を作って、姫を埋葬し、玉で墓を飾りなさい』
と命じました。
そこで、この墓を玉丘と、そしてこの村を玉野村と名づけました。」
とあります。

このお二人の皇子は、幼いころから皇位継承に絡んだ辛酸をなめていたからでしょうか、非常に仲が良く、いつもお互いに譲り合っていました。
志深の村の首長のイトミの家で歌を詠うことになった時も、また、天皇の位に就く時も互いに譲り合って、結局弟のヲケ皇子が先にしました。
ネヒメの時も双方が譲り合い、その間にネヒメは年老いて亡くなってしまいました。
この可憐な乙女は一生待たされ続けて終わった悲劇の主人公と言えます。
どんな気持ちで待ち続けたのでしょうか。
加西市を流れる万願寺川中流域右岸の玉野町辺りがこの地に比定され、墓は玉丘古墳公園として整備されている中の最大の前方後円墳がネヒメの墓と伝えられています。

[賀毛(かも)の郡 楢原の里]

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